これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/02/03 補足

昨日の記事に対する補足である。 近年では、こうした終末期のあり方について多少は進展があり、人工呼吸器の装着については慎重になる例が増えている。 というのも、一度人工呼吸を開始したならば、これを中止することは難しい。 敢えて中止すれば、殺人罪に問われる恐れがある。 それならば、回復が期待できない場合、はじめから人工呼吸を行わない方が良い、というわけである。

言うまでもなく、この論理は、おかしい。 人工呼吸をやめることが殺人にあたるならば、人工呼吸をはじめから行わないことも、未必の故意による殺人である。 これは、ただ単に、何もしないことで患者を死なせるより、何かした結果として患者を死なせた方が、「なんとなく」悪いような気がする、というだけのことである。 医師の側としては、遺族とのトラブルを回避し、民事や刑事での訴訟を回避する目的で、やむなく自衛措置を講じているに過ぎない。

そもそも、殺人が罪とされるのは、それによって人権が侵害され、社会の秩序が乱され、安寧が脅かされるからに過ぎない。 従って、終末期に、人の手によって故意に生命を終わらせることについては、本来、殺人罪に問う必要がない。 もちろん、キリスト教やイスラム教などの観点からいえば、生命の終わりを決めるのは神のなさることであって、人の恣意によって行われてはならない。 しかし信教の自由が認められている日本社会において、尊厳死を選ぶ権利が法的に認められていない現状は、それこそが人権侵害である。

なお、現状では尊厳死を認める法的根拠はないものの、現実には、少なからず行われていると言われている。 「塩化カリウムを投与して死なせるのは殺人だが、敢えて治療しないことで死なせるのは合法である。」などという、意味のわからない論理が、現場ではまかり通っているらしい。 過去の医師国家試験にも、そうした現状を認めるかのような出題がなされたことがある。 これに対し、具体的にどこであったか忘れたが、道理を重んじる一部の国では致死的な薬物を投与することによる積極的尊厳死が認められている。

「筋を通す」ということを軽んじる日本社会の風潮が、ここにも表れている。 よく言えば「中庸」ということになるのだろうが、むしろ「事なかれ主義」という言葉の方が、ふさわしかろう。


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