これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/02/02 治療の目的

The New England Journal of Medicine誌に連載されている Case Records of the Massachusetts General Hospital は、 米国のハーバード大学附属病院である The Massachusetts General Hospital (MGH) における症例検討会の抄録である。 医学的読み物としても面白いので、一部の学生や研修医らに人気があり、世界的に広く読まれている。

この Case Records の中で、特に印象深かったのがCase 1-2012である。 以下、いわゆるネタバレなので、まず自分で読んでみたい人は注意されたい。

この 82 歳男性の患者の主訴は、難治性の皮膚病変であった。 診断に至る詳しい過程は省略するが、結局、骨髄異形成症候群に伴う壊疽性膿皮症と診断された。 骨髄異形成症候群というのは、造血系の細胞に異常が生じ、正常な血球が産生されなくなる症候群である。 一応、現在の血液内科学では、白血病ではなく「前白血病」のようなものであるとされている。 ただし、これが白血病と本質的に異なる疾患であるようには、私には思われない。

さて、Case Records の主眼は診断過程に置かれているのだが、むしろ私が感心したのは、治療の部分である。 本症例では、壊疽性膿皮症に対してグルココルチコイドや免疫抑制薬などを用いて症状を抑える一方、 骨髄異形成症候群に対しては積極的な治療を行わなかった。

骨髄異形成症候群は腫瘍性疾患であるから、これを積極的に治療しようとするならば抗癌剤などを用いたり、造血幹細胞移植を行ったりすることになる。 逆に、もし、抗癌剤ではなくグルココルチコイドや免疫抑制を投与したならば、まず間違いなく増悪し、致死的になるであろう。 従って、この Case Records を学生の勉強会で読んだ時、私は 「マサチューセッツの連中は何をやっているのか。患者を殺しにいっているのか。」と発言した。

しかし、その 3 分後、私は態度を 180 度、変えた。「さすがマサチューセッツだ。」などと言い始めたのである。 要するに、本症例における骨髄異形成症候群は、極めて予後不良であると推定され、患者の年齢等を考慮すると、根治不可能であると判断された。 そこで患者や妻とよく話し合った上で、はじめから根治を諦め、緩和医療に徹するという方針がとられた。 死を受容した上であれば、より大きな問題なのは骨髄異形成症候群ではなく、むしろ皮膚病変の方である。 そのため、骨髄異形成症候群を増悪させる恐れがあっても、壊疽性膿皮症の症状を抑えることを優先した治療が行われたのである。

このように初めから根治を放棄して緩和医療に徹する、というのは、場合によっては最適な医療であるが、少なからぬ医師が「なんとなく」抵抗を感じるであろう。 特に今回の症例でいえば、医療行為によって死を早めている可能性が高いのだから、 最大限の悪意をもって考えれば、日本の法律でいう嘱託殺人にあたる可能性すらないわけではない。 しかし、これは、日本における終末期を巡る法整備の遅れの問題であって、医学の観点からいえば、そうした治療が不適切であると考える余地はない。

日本の場合、救命が絶望的な状況であっても、とりあえず「最善を尽くす」と称して救命を試み、 それに失敗してから緩和ケアに移る、という医療が、遺憾ながら、少なからず行われているのではないか。 特に、明らかに生存不可能な新生児や、回復不可能な高齢者に対して、治療目的を曖昧にしたままで、 とりあえず人工呼吸や大量輸血などで長期にわたり生命を維持する、という行為は稀ではあるまい。 もちろん、それを行っている当事者の医師は疑問を持っているのだが、法的には尊厳死が認められていない現状では、他にどうすることもできず、困っているのである。

誰だって、他人の生命を終わらせるという重大な責任は負いたくないし、そのような決断をしたくはない。 しかし、そうして問題を先送りしたところで、誰も幸せにはならない。 このあたりの問題は、当事者の判断に委ねるのではなく、適切な法整備を含めた社会的枠組を早急に構築する必要がある。


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