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2016/01/27 食塩水の濃度は 3 % か 0.9 % か

救急医学を修めた学生であれば、この標題から「あの話だな」と、ピンときたであろう。

低ナトリウム血症に対する対症療法について考える。 低ナトリウム血症というのは、血清ナトリウム濃度が異常に低い、という状態を意味する語であって、疾患名ではない。 医学書院『臨床検査データブック 2015-2016』によれば、血清ナトリウム濃度の基準値は 135-149 mEq/L であるから、 だいたい血清ナトリウム濃度が 135 mEq/L 未満であるならば、低ナトリウム血症の疑いがある。 ただし、「基準値」というのは健常人の 95 % 程度が入る範囲、という程度の意味でしかないから、 個人差として、もともと血清ナトリウム濃度が低い人もいることを忘れてはならない。 また逆に、血清ナトリウム濃度が基準範囲内であるが低ナトリウム血症である、ということもあり得る。 従って、低ナトリウム血症を正確に診断することは、一般には容易ではない。

低ナトリウム血症の患者においては、神経や筋の興奮性が損なわれ、様々な神経系の異常を来すことがある。 従って、治療としては、低ナトリウム血症の原因を探して除去することはもちろんであるが、対症療法としてナトリウムを補給する、ということも行われる。 これを臨床医学では「血清ナトリウム濃度を補正する」などと表現している。 補正の方法としては、急がないのであれば経口的に塩化ナトリウムを摂取しても良いのだが、救急医療では迅速性と確実性を重視し、食塩水を静脈内投与することが多い。 なお、正確にいえば「食塩」には塩化マグネシウムなどが含まれていることもあるのだが、医療では塩化ナトリウムの別名として食塩という語が用いられる。 問題は、その食塩水の濃度をどうするか、ということである。

いわゆる生理食塩水というのは、質量濃度 0.9 % の塩化ナトリウム水溶液のことであって、血液と比較して概ね等張であるから、無理なく静脈内投与することができる。 これに対し高張食塩水は血管内皮細胞などを刺激するようであり、疼痛や血管壁の炎症などを惹起することがある。 そのため、3 % を超えるような高張食塩水を投与する場合には、鎖骨下静脈などの太い静脈、いわゆる中心静脈から投与するのが安全であるという。 換言すれば、3 % 食塩水というのは、細い末梢静脈から比較的安全に投与できる限界の濃度である。

さて、低ナトリウム血症の補正を急速に行うべきか、緩徐に行うべきか、という話は以前に書いた。 しかし現実の救急医療では、急性に進行した低ナトリウム血症であっても、痙攣などの重大な神経症状を来していない場合には生理食塩水を用いることが多いという。 本日の話題は、その理論的根拠は何か、ということである。

たとえば血清ナトリウム濃度が 115 mEq/L などと著明な低値であっても、重大な神経症状がなければ高張食塩水ではなく生理食塩水を用いて緩徐に補正する、 という発想には一定の合理性はある。 なぜならば、高度の低ナトリウム血症なのに神経症状がないということは、オスモライトの移動による代償が進んでいると考えられるからである。 しかし、もし診察時点で重篤な神経症状がなかったとしても、たとえば前日の血液検査結果と比較して急激に血清ナトリウム濃度が低下しているならば、どうか。 現に脳浮腫が進行している最中であり、これから重症化すると考えられ、また橋中心性髄鞘崩壊などの浸透圧性脱髄症候群を来す恐れはないから、急速に補正するべきであろう。

難しいのは、128 mEq/L などの、明かに低値ではあるが高度ではなく、病歴からは急性に発症した低ナトリウム血症と考えられ、しかし神経症状は比較的軽度な場合である。 理屈としては、急性発症であるならば脳浮腫が進行中であると考えられるので、神経障害が重篤化する前に高張食塩水による急速な補正を行うのが、よろしかろう。 しかし現実には、生理食塩水を用いて緩徐に補正することが多いようである。 この緩徐な補正の根拠としては、次のようなものが考えられる。

1) 128 mEq/L 程度の血清ナトリウム濃度があるならば、補正が多少遅くとも、生命にかかわるような重篤な神経症状は生じないと期待できる; 2) 実際に検査して確認したわけではないので、実は緩徐に発症した低ナトリウム血症かもしれず、その場合は急速な補正は危険である; 3) 急速な補正に対し医師が心理的抵抗を抱いている。

救急医療の専門家は別にして、学生や初期臨床研修医などの場合、3) が一番大きいであろう。 浸透圧性脱髄症候群を来す恐れがあるかどうかを、自信を持って判断することができないからである。 しかし医学的に本当に合理的な根拠は 2) だけなのだから、急性に生じたという確信がある場合には、高張食塩水を用いるのが正しいと考えられる。

「急速な補正は橋中心性脱髄を来すかもしれない」と、「かもしれない」ばかりを強調して過度に慎重な方法を選んでは、なるまい。 「本当にその恐れはあるのか」という点を追及することが重要である。 このあたりの際どい判断をガイドラインに丸投げすることは、医師にとっては簡単で保身の役には立つが、結果として患者の利益は損なう。


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