これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
常染色体優性多嚢胞腎と呼ばれる疾患がある。 `Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease 9th Ed.' によれば、 これは両側腎に拡張する嚢胞が多数形成されることで腎実質を破壊し、腎不全に至らしめる遺伝性疾患である。 だいたい、人口の 0.1-0.3 % に生じるらしく、腎不全の原因として稀ではない疾患である。 原因遺伝子としては PKD1 と PKD2 が知られているが、これらに限らないようである。 少なくともこれらの遺伝子は、一方だけでも存在すれば機能としては充分であるらしく、その意味では癌抑制遺伝子と似ている。 これが常染色体優性遺伝するのも、von Hippel Lindau 病などが優性遺伝するのと同様の理屈であろう。 詳細な機序はよくわからないのだが、これらの遺伝子異常は尿細管の繊毛上皮の機能異常を来し、 これが上皮細胞の異常な増殖や液体の分泌などを来し、結果として嚢胞が多数、形成されるものと考えられている。
少なくとも細胞レベルでは、この異常な細胞増殖や分泌は、バソプレシン受容体からのシグナルによって亢進するらしい。 従って、バソプレシン受容体阻害薬を用いれば、腎実質の破壊を抑制することができるだろう、と考えるのは、合理的ではある。 そこでバソプレシン受容体拮抗薬であるトルバプタンは、常染色体優性遺伝多嚢胞腎による腎機能低下を予防する薬として用いられる。
あたりまえのことであるが、この治療法は、かなり無茶をしている。 バソプレシン受容体からのシグナルを抑制するということは、つまり意図的に、いわゆる腎性尿崩症を引き起こすということであって、かなりの副作用を生じるであろう。 従って、薬理学的な表現をすれば、治療域が極めて狭いか、あるいは、そもそも治療域が存在しない可能性すらある。
この治療法については、ランダム化二重盲検で効果が確認された、と言われている。 その報告は The New England Journal of Medicine 367, 2407-2418 (2012). であり、 この試験のプロトコルは American Journal of Kidney Diseases 57, 692-699 (2011). である。
私が読んだ限りでは、この試験は、二重盲検ではない。 私の読み落としでなければ、確かにトルバプタンとプラセボ群とを比較してはいるものの、プラセボとして具体的に何を投与したのかは、明記されていない。 たぶん、ラクトースの錠剤か何かを使ったのであろう。 そうであれば、トルバプタンは、常染色体優性多嚢胞腎に効くかどうかはともかく、利尿薬としては効くのだから、 投与されたものがトルバプタンなのかプラセボなのかは、患者や診察した医師にとっては明瞭であろう。 つまり、実際には盲検化されていないと考えられる。
もちろん、これは試験の設計が悪いわけではない。 この場合、盲検化することが、そもそも不可能なのである。 しかし、それならば、盲検ではないことを踏まえ、プラセボ効果が含まれていることを前提に、慎重に効果を判断する必要がある。 「プラセボと比較しているから」というだけの理由で「二重盲検だ」と短絡的に考えてはならない。
実際のところ、この試験の結果の解釈は、難しい。 確かに、腎容積の変化や血清クレアチニン濃度について、トルバプタン投与群の方が比較的良好な経過であったようにみえるが、 この差異は、患者毎の個人差、あるいは測定上のばらつきに比べて、それほど明瞭なものではない。
統計データの解析には Wald test を使ったとのことである。 私は、この手法について詳しくはないのだが、結局のところ、統計学的には「トルバプタン群とプラセボ群との間に差異が生じていた」ということを 示しているに過ぎないようにみえる。 上述のようにプラセボ効果が介在していることを考えれば、トルバプタン投与によって予後が改善したと考える統計学的根拠は不充分であろう。
もちろん、私は、トルバプタンの使用を批判しているわけではない。 理屈としては効きそうなのだから、むしろ、副作用等が許容範囲内であるなら使うべきである。 ただし、その効果について統計学的な確認は不充分であることを患者に正しく伝える必要があると思われる。