これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
表題の書物を読んだ。 著者の津田敏秀氏は、疫学を専門とする医師で、岡山大学の教授である。 内容は、水俣病を中心として、公害事件における医学者の不適切で非科学的な主張や活動を攻撃するものである。 最後の方には、俗に医局制度などと呼ばれる、公式には存在しないことになっている制度についての批判なども述べられている。
同書の内容について、私としては、大きな不満や異論はない。 ただし二箇所だけ、残念に思った点がある。
第一は、津田氏が、要因への暴露と疾病との因果関係を、疫学によって十分に証明することができる、と主張していることである。 津田氏は、あくまで公害や食中毒に対する社会的対応について述べているので、確かに、その限りにおいては、因果関係を推定する根拠として疫学は十分に強力である。 しかし、よく指摘されるように、交絡因子の影響が十分に小さいことを、疫学だけでは、証明できない。
たとえば水俣病についていえば、疫学的に「水俣湾で獲れた魚を食べると神経系に異常を来す」ようにみえたとする。 しかし、実は後からわかったように、問題は有機水銀なのであるから、「水俣湾で獲れた魚」であっても汚染されていない魚であれば、いくら食べても水俣病にはならない。 従って、「水俣湾で獲れた魚」と「水俣病」の間には強い相関があるものの、それは因果関係ではない。 さらにいえば、「有機水銀で汚染された魚を食べると神経系に異常を来す」という関係があるように疫学的にはみえても、実は有機水銀と共に何か未知の汚染物質が排出されており、こちらが真の原因であるかもしれない。 結局、疫学は「強い相関がある」ということまでは示せるが、「因果関係がある」ということは、本質的に、証明できないのである。
ひょっとすると、「水俣湾で獲れた魚を食べなければ水俣病にならないのだから、水俣湾の魚が原因だと言っても良いだろう」と反論する人もいるかもしれない。 しかし、その論理を認めてしまうと、たとえば「魚を一切食べない人は水俣病にならないのだから、水俣病の原因は魚を食べることである」という論理も成立してしまう。 つまり、水俣湾産に限らず、魚全般が悪い、ということになってしまうのだ。 これでは問題の本質がわからなくなり、議論が迷走するだけだから、それは、やはり「原因」と呼ぶわけにはいかない。
津田氏は「交絡バイアスの成立条件が全部揃うのは結構厳しいので、実際には交絡バイアスによる系統的誤差は疫学初学者が想像するほど著しくは測定値に入ってこない」と述べているが、これこそ、津田氏自身が激しく攻撃している「データに基づかない、非科学的な決めつけ」である。 たぶん、津田氏は相関関係と因果関係を混同しているのだろう。
もちろん、食中毒や公害への対策の根拠としては、疫学的に示された相関だけで十分である。 因果関係の証明まで待っていては遅すぎる。 だから、水俣病などの件について、疫学的根拠だけで十分であるとする津田氏の主張は完全に正しいのだが、それを「因果関係」と表現してしまうことだけは、認めるわけにはいかない。
第二は、同書で攻撃対象にしている「衞藤・岡嶋論文」についてである(衞藤光明、岡嶋透「水俣病の感覚障害に関する研究 --- 剖検例から見た感覚障害の考察」『熊本医学会雑誌』一九九四、六八、五九-七一)。なお、私は原文を確認していない。 世の中にくだらない論文は無数にあるが、津田氏がこれを敢えて取り上げて叩いているのは、この論文が「末梢感覚障害のみを呈する患者は水俣病とは考えにくい」という政府等の主張の根拠として用いられているからである。
津田氏の指摘によれば、衞藤・岡嶋論文では、疫学用語が不適切に用いられている。具体的には「偽陽性率」「特異度」などの言葉が誤用されており、キチンとした議論が成立していないという。 津田氏の引用の仕方に悪意がないならば、この指摘は完全に正しく、この論文の著者は、疫学の基礎を知らず、医師としての基礎的素養を欠いていると言わざるを得ない。 ただし、特異度や偽陽性率は、検査対象とする母集団の構成によって大きく変化するものであるから、母集団を限定することなしには、その値がいくらであるかを議論することはできない。 また、母集団が変わればその値も変わるのだから、結局、その値自体には、あまり議論する価値がない。 この根本的な問題について津田氏は言及していないから、どうも、氏の攻撃も問題の中心を外してしまっているようにみえる。 たぶん、同書はあくまで一般人向けなので、本当に核心をついた攻撃は読者の理解の範疇を逸脱すると考え、敢えて避けたのであろう。
以上のように気になる点はあるものの、基本的には、同書は、実社会と医学との関係について鋭い指摘を行ったものであり、名著であるといえる。 文庫版で 300 ページ程度のものなので、医科学生諸君には、ぜひ、一読をお勧めする。