これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/06/01 研究マインド

名大医学科の教授陣は、学生に対し、いわゆる研究マインドの重要性を常々、説いている。 単なる医療の実施者ではなく、一人の医学者としての心構えが重要だ、というのである。 その理由としては、明日の医療を創成するため、というようなことが、しばしば言われる。 これに対し、多くの学生は賛同していない。 「明日の医療を開拓することは重要だが、私はそれに向いていない。どうか、あなたがたが、それをやってください。」と言うのである。 平たく言えば、「研究などというものは、大変な割に経済的・社会的な報酬が少なく、しかも患者から直接感謝されることもなく、やりがいを感じない。」ということである。

研究の何たるか、という点については、今は書くことを控える。 なにしろ、私もここ数年は研究の場から遠ざかっているので、あまり強いことを主張できる立場にないからである。

しかし、医学研究に従事しない臨床医にとっても、いわゆる研究マインドは重要である。 医学研究の視点を持たない医学科生は、試験対策として「医学」と称するものを「勉強」する際に、概ね、次のような方法をとる。 すなわち「○○という疾患の所見は△△であり、病因は××であり、治療法は……」というような知識を、ひたすら、記憶するのである。 記憶するという行為の馬鹿らしさは既に何度も述べているので、ここでは繰り返さない。 本日、指摘したいのは「○○という疾患の所見は△△であり、病因は××である。」という知識、あるいは考え方が、医学的に正しくない、ということである。

何がまずいのかというと、疾患名が主語になっていることである。 彼らは、まるで天の神様が定めたかのように、まず「○○」という疾患が存在することを前提としている。 しかし疾患名などというものは、我々が学術的議論をする際の便宜のために創造した概念であって、自然の摂理として存在するものではない。 従って、医学的に正しい考え方に基づくならば「××の場合には、△△のような所見を呈することがある。これを○○という。」というような表現になるはずである。

たぶん、多くの学生は、両者の違いを認識できずに「同じことではないか」などと言うであろう。 私が何を主張しようとしているのか、実にわかりにくいであろうことは、私自身も理解している。 この違いを、わかっていない人に教えるのは、実に難しい。 というより、学術的好奇心、医学的探究心を欠き、マニュアル診療に安寧を求めるような学生には、教えようがないのかもしれない。

端的にいえば、研究マインドを持つということは、既存の疾患概念を疑い、時には診断基準に従わず、必要に応じて標準治療から外れる能力と勇気を持つことでる。 それをできずに、無批判な丸暗記に基づいてガイドライン盲従型のマニュアル診療を行うことは、不適切な医療の温床となる。

-->