これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/06/22 統計調査

「臨床研究」と呼ばれる分野の論文には、何らかの医学的介入がもたらす転帰について、統計的に調査して報告するものが多い。 臨床医が、診療の片手間に行う「研究」としては人気のある分野である。 しかし、こうした報告には、労力を費している割には考察の甘いものが多く、特に統計処理については話にならない内容のものが、しばしば、みられる。 たぶん、論文を「上司に命令されたから」とか「学位をとるため」とか「経歴にハクをつけるため」とかいう目的で書いているから、こうなるのであろう。

ランダム化比較試験とは、患者を、ある介入を行う群 (介入群) と、行わない群 (対照群) に振りわけて、両群で転帰に差が生じるかどうかをみる調査をいう。 特に、それぞれの患者がどちらの群に属するかを、患者も、治療を行う者や成績を評価する者も知らない状態で行われるものを二重盲検という。 可能であれば、統計調査は二重盲検ランダム化試験として行うべきであるが、様々な制約から、盲検でない例も多い。

患者をどちらの群に割り付けるかは、ふつう、コンピューターを用いて無作為に決定する。 以前は、封筒に入ったカードを使って割り付ける方法、すなわち封筒法が主流であったが、不正を行うのが容易であり、実際に不正が行われる例が多いことが指摘されている。 現代ではコンピューターを使用しない理由はないから、封筒法を用いて調査した報告においては、現実に不正が行われたとみなすべきである。 封筒法を用いた論文には、読む価値がない。 それにもかかわらず、いまだに封筒法を用いた調査報告が、それなりに有名な論文誌に掲載されていることは、驚きである。

また、コホート研究とは、患者をどちらの群に割り付けるかは主治医らの判断に任せた上で、その後の転帰を調べる調査をいう。 ランダム化比較試験に比べて、実施にあたり社会的障壁が低いという利点がある。 しかし、両群の転帰に差が生じたとしても、それが介入の結果なのか、それとも別の要因によるものなのか判別することができない。 仮に介入群の方が予後が良かったとしても、それは、その介入の結果であると考えることはできない。 コホート研究が威力を発揮するのは、理論的予想がコホート研究によって否定された場合のみなのである。 この事実は、理論的思考の乏しい臨床医や学生からは、しばしば軽視される。 コホート研究を根拠に「エビデンスがある」などと主張する者は、理論的思考の能力と意欲が乏しいと言わざるを得ない。

ランダム化比較試験にせよ、コホート研究にせよ、報告においては、ふつう、まず両群の患者の性別だとか、年齢だとかの統計データが表にして掲載される。 「どちらの群にも、特に偏りは生じませんでしたよ」ということを示すためである。 このとき、しばしば p 値を示して「有意差はなかった」などと主張する者がいるが、彼らは統計学をわかっていない。 その表について有意差の有無を議論しても、意味がないのである。

p 値で評価できるのは「両群が同じ分布に従っていると考えられるかどうか」である。 コホート研究においては、その過程を考慮すれば、両群が異なる分布に従っていると考えざるを得ない。 仮に p 値が大きく、いわゆる有意差がなかったとしても、それは誤差に埋もれているだけである。 「有意差がなかったから問題ない」という論理は、認められない。

一方、ランダム化比較試験においては、その過程から論理的に、両群が同じ分布に従っていることが保証されている。 仮に p 値が小さかったとしても、それは偶然であって、両群の分布が異なるという根拠にはならない。 もちろん、偶然の結果による偏りは最終的な統計値に影響を与えるが、最終的に評価項目の p 値が小さければ、 そうした偶然の偏りが生じた可能性は充分に小さいといえるため、問題にならない。 この点に、コホート研究とランダム化試験の決定的な差異がある。

統計処理がデタラメだと、多大な労力を費した臨床調査も、何らの学術的意義を生み出すことができない。 まともに統計処理をできないのなら、調査をしても意味がないのである。 努力自体に価値が認められるのは、小学生までである。このことを認識していない医師や学生が、かなり多いように思われる。


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