これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
診療録、いわゆるカルテを記載する際には「SOAP 方式」が推奨されることが多い。 これは、記載内容を S, O, A, P の四項目に分け、順番に記載するものである。
`S' は subject であり、患者による訴えの内容を記載する。 「患者の言った言葉を、そのまま書きなさい」と指導されることもあるため、 「よく眠れたよ」「おはよう」などと話した内容をそのまま記載する者がいるが、彼らは「そのまま書く」という言葉の意味を誤解している。 「そのまま」というのは、患者が「足がズキズキする」と言ったならば、それを「足が痛む」などと勝手に解釈してはならない、という意味である。 「痛いのですか?」と問うて、患者が「うん、足が痛い」と言ったならば、そこで「下肢が痛む」などと記載するのが正しい。 日常用語の「足」は、解剖学的には「下肢」とするのが正しく、「足」といえば「足首から先」を意味するので、そこは言葉を置換するのが正しい。
`O' は object であり、自分が観察した事実や検査所見を記す。 視診や触診などの所見だけでなく、血液検査所見もここに書くのが普通である。
`A' は assessment であり、S や O の内容に対する医学的解釈を記載する。 ただし、これを適切に記載している人は極めて稀である。 S や O に記載した内容に対しては、例外なく、assessment をしなければならない。 S で「下肢が痛む」と書いたならば、なぜ痛いのか、という点について、原因の推定を含め、必ず何らかの記載をしなければならない。 また、O に血液検査結果の数値を記載したならば、それは正常なのか異常なのか、異常ならば原因は何か、といったことを記載しなければならない。 それを怠った場合、医師法違反 (診療録の記載義務違反) であるか、藪医者 (何も考えていない) であるかの、どちらかである。
`P' は plan であり、今後の診療方針などを記載する。
稀に、<A> に「CRP 下がった」などと書く者がいるが、これはダメである。 「CRP 測定値が下がった」というのは観察事実であるから、書くなら <O> にするべきである。 <A> に書くなら「炎症が治まった」などの評価内容でなければならない。 また、形式は満足していても良くない記載例は、たとえば次のようなものである。
<S>
三日前から腹痛が続いている。
<O>
腹部の右上四半部に圧痛あり。他に身体診察上の異常所見なし。
血液検査で WBC 14000, CRP 1.3. 他に異常なし。
<A>
ウイルス性腸炎か。
<P>
経過観察。
記載が簡素すぎる、とか、単位を省略するべきではない、というのも問題点ではあるが、ここで取り上げるのは <A> の「ウイルス性腸炎か。」という記載である。 そもそも、これは日本語として成立しておらず、せめて「ウイルス性腸炎を疑う。」とするべきである。 何よりまずいのは、なぜ「ウイルス性腸炎」と考えたのか、その思考過程が一切記録されていないことである。 例えば、なぜ「癌ではない」と考えたのか。
中途半端に臨床をかじった学生や研修医は 「積極的に癌や慢性疾患を疑う所見はない。まず疑うのはウイルス性腸炎であって、長引くようなら内視鏡検査などを行えば良い。」 と述べるであろう。 それならば、<A> の項目は、少なくとも、次のようでなければならない。
<A>
悪性疾患や慢性疾患を疑う所見はない。
急性ウイルス性腸炎と考えられる。
学生であれば、さらに詳しく、<A>, <P> を次のように書くべきであろう。
<A>
悪性疾患や慢性疾患を疑う所見はない。
有病率から考えて、急性ウイルス性腸炎が疑われる。
<P>
経過観察の上、改善がみられなければ結腸内視鏡を施行する。
このように、論理がキチンと成立するように記載することは重要であり、わかりきった、あたりまえの内容に思われたとしても、手を抜いてはならない。 なんとなく「あたりまえ」だと思っていたのに、いざキチンと書いてみると自分の思考が論理破綻していることに気づく、という事例が、しばしば経験されるからである。 このあたりを徹底するかどうかに、名医と凡医の差が表れるのであろう。