これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/05/18 「シュワノーマの診断は簡単である」

正直に告白するが、私は一時期、標題のようなことを思っていたことがある。 実に恥ずかしい、無知丸出しの誤解である。

本題に入る前に、Schwann 細胞について述べなければならない。 Schwann 細胞とは、末梢神経において、神経細胞の軸索を包む髄鞘を形成している細胞をいう。 軸索には、髄鞘に包まれている「有髄神経」と、髄鞘をもたない「無髄神経」があり、前者の方が神経伝導速度は速い。 これは、いわゆる「跳躍伝導」が起こるためである、と説明されることが多い。 すなわち、髄鞘は細胞膜を「絶縁」する効果があり、この絶縁のために跳躍伝導が起こり、それゆえに伝導が速くなる、というのである。 この説明には二つの問題点がある。 ここでいう「絶縁」とは何か、という点と、なぜ絶縁されていると伝導が速いのか、という点である。

絶縁とは、電気抵抗が非常に大きく、事実上、電流を通さない状態をいう。 細胞膜は脂質二重層からなる膜でできているため、物理学的な意味でいえば、もともと、絶縁体である。 従って、「髄鞘により『絶縁』される」というときの「絶縁」とは、何か特別な意味を持つ言葉のはずである。 この点について、受験参考書などには明記されていないことが多いようだが、`Molecular Biology of the Cell' 6th Ed. などは 「絶縁とは、イオンチャンネルを排除し、あるいは不活化させることである」という意味のことを暗に述べている。

跳躍伝導が速い理由については、いささか説明が厄介である。 まず念のために確認すると、膜電位は、細胞内で一様ではなく、特に軸索においては、位置によって異なる。 さて、軸索のある部分が興奮すると、そこでは細胞外から陽イオン、すなわちナトリウムイオンが流入する。 軸索の上流側は既に興奮しているため相対的に高電位であり、また下流側は静止電位であり相対的に低電位である。 そのため、陽イオンは下流方向に、陰イオンは上流方向に、移動する。 この結果、下流側の細胞内電位、すなわち膜電位が、いささか高くなる。脱分極するわけである。

さて、未興奮の軸索では、膜上のカリウムチャネルは開口している。 従って、無髄神経において、軽度に脱分極した 部分では、カリウムイオンが細胞外に流出する。これは再分極を促す電流である。 全体としてみれば、軸索内電流は脱分極を促し、膜を横断する電流は再分極を促すのだから、この部分の膜電位が閾値を超えるには、なかなか、時間がかかる。 これに対し、有髄神経においては膜上にカリウムチャネルが乏しく、あるいは不活化しているため、脱分極は比較的、急速に起こる。 結果として、上流から流れてくる電流を、そのまま、厳密にいえば少しだけ弱めて、下流に伝えることになる。

このようにして軸索内電流は下流に伝わり、次のランビエ絞輪に至る。 ここにはカリウムチャネルもナトリウムチャネルもあるので、十分に脱分極すれば、興奮する。 以上のことと、「チャネルが開くには、かなり長い時間がかかる」ということを組み合わせて計算すると、 ランビエ絞輪の間隔が一定の距離より短い場合には、有髄繊維の方が無髄繊維よりも早く伝導する、ということがいえる。 難しい計算ではないので、大学受験時代、あるいは大学一年生の教養の物理学を思い出して、各自、方程式を描いてみると良い。 有髄繊維の方が無条件に速いわけではない、ということに注意が必要であるが、現実には、この条件はほとんど常に満足される。

全体としてみれば、「細胞内から細胞外への電流がない」ということが有髄繊維の最大の利点である。 このために、ランビエ絞輪における脱分極が「速く」なり、閾値に達するのが「早く」なるため、興奮の伝導が「速く」なる。 ただ、これを本当に説明するためには、どうしても、数式を使わないわけにはいかない。

さて、本題はシュワノーマの診断である。 シュワノーマとは、Schwann 細胞が腫瘍化したものである。良性腫瘍のことが多いが、悪性化することもある。 一部の臨床医は、末梢神経が腫瘤化しているのをみて「たぶんシュワノーマであろう」と判断することがあるが、これはあまり正しくない。 たぶん、だいたいの例では当たっているのだが、これは統計的に「末梢神経の腫瘍はシュワノーマであることが多い」という事実から当てただけのことである。 「診断なんか、八割当てれば良い。残り二割は誤診しても、私のせいではない。」という態度で臨むなら別だが、まっとうな医者であれば、 組織学的診断抜きに「シュワノーマである」などと決めつけることはしない。

多くの学生は、「シュワノーマの組織学的特徴は、核の柵状配列である」などと記憶しているだろう。 つまり、顕微鏡でみると、核がほとんど一列に並ぶという特徴的な格好をしているため、ただちに「あ、シュワノーマだ」とわかる、という寸法である。

冷静に考えれば当然なのだが、この診断法は、正しくない。 シュワノーマであっても柵状配列を成さないこともあるし、平滑筋腫などが柵状配列を成すこともある。 シュワノーマを、本当に確信を持って診断するには免疫染色などを駆使しなければならないし、駆使しても診断が難しい例も稀ではないという。 そうした難しさ、深淵さを、`Rosai and Ackerman's Surgical Pathology' 10th Ed. は、教えてくれる。


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