これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/05/11 比干と晏嬰

たまには、古代中国のことを書くのも悪くないだろう。 中国では、戦国時代といえば、概ね紀元前 5 世紀頃から、秦による紀元前 221 年の天下統一までの時代をいう。 天下を統一した秦王は、いずれも王者を意味する「皇」と「帝」の字を併せて「皇帝」という称号を作り、始皇帝と称した。 戦国時代の前は春秋時代と呼ばれ、いずれも諸侯が争う群雄割拠の時代であった。春秋時代と戦国時代の区分については曖昧であり、春秋戦国時代と一括りにされることも多い。 形式的には、春秋時代は周王朝の時代であり、中華の諸侯は周王朝の臣下ということになっていた。 周が天下を掌握したのは、紀元前 1046 年に商王朝を打倒してからである。商は、現代では殷とも呼ばれる。 商の最後の王は受王であり、極悪非道の王であったとされるが、これは周王朝による捏造であるかもしれない。

商の末期に、比干という名臣がいた。 彼は誅殺されることを覚悟した上で受王の非道を諫め、結局、聴き入れられずに怒りをかい、殺された。 誰であったかは忘れたが、確か唐宋八大家の一人であったと思うのだが、中国の歴史上の名士に、比干を厳しく批判した人がいた。 いわく、比干の言動は正しいが、結局、受王の行動を変えることができなかったのだから、無意味であった。 殺されてしまっては、もはや比干の能力の活かしようがない。 むしろ伯夷・叔斉のように隠遁し、次の王が立つのを待ち、それから改めて出仕して、その才を天下のために用いるべきであった、というのである。 この比干に対する批判は理解できなくもないが、受王を恐れて口をつぐむ凡庸な臣よりは、死を恐れず王を諫める比干のような人に、私はなりたい。

ところで、春秋時代の斉に晏嬰という名臣がいた。 彼も比干と同じように主君に諫言を呈して憎まれつつも、決して誅殺されず、ついに宰相にまでなった人物である。 両者を比較するなら、確かに、比干よりも晏嬰のようになりたい。 だが、両者の違いは、単に主君に恵まれたかどうか、というだけのことであるかもしれない。 晏嬰も、もし商の時代に生まれていたならば、受王に殺されていたのではないか。


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