これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2015/04/28 やってみなければわからない

「やってないのでわかりません」という言葉を、時に、耳にすることがある。 どちらかといえば、臨床医療というよりは、学術研究の話をしている時の方が多いかもしれない。 たとえば、ある人が行った実験結果などを発表したのに対し、「これをこうしたら、どうなるのですか?」と質問した時に、 「やってないのでわかりません」と回答される、という具合である。 これについて思い起こされるのは、私が修士課程一年生であった頃のできごとである。 特定個人の話を持ち出して申し訳ないのだが、まぁ、たぶん当事者も覚えていないだろうから、ご容赦いただきたい。

彼は私より一学年上の学生であった。 彼は、研究室内で進められていたあるプロジェクトの一員として、実験を主体とする研究に従事していた。 条件をさまざまに変えて、似たような実験操作を繰り返し、データを収集するのが、彼の主たる任務であった。 私は、そのプロジェクトのメンバーではなかったが、研究室内での討論会などで、彼の実験について質問する機会があった。

ある時、討論会で彼が示した実験データが、あまり理論と合致していないように思われた。 そこで問題点を明らかにするために、私は 「もし、水分量がもっと多かったら、この値は大きくなるのですか?それとも小さくなるのですか?」と質問してみた。 すると彼は「やってないのでわかりません」と答えたのである。 これに反応したのは私ではなく准教授であった。 気色ばんで「やってないのでわからないとは、何事か」と言ったのである。

准教授は、「そんなこと、予め実験しておけ」という意味で発言したのではない。 「そんなことは、実験しなくてもわかるはずである」と言ったのである。 実験とは、単にデータを収集する目的で行うものではなく、 そのデータを通じて何らかの科学的普遍性を持つ法則を発見し、あるいは何らかの仮説を検証する目的で行われるものである。 従って、得られたデータを元に考察すれば、未だ行っていない条件下における測定結果を予想できるはずなのである。 それなのに「やってないのでわからない」と発言するということは、「私は何も考えておりません」と告白しているに等しい。

京都帝国大学教授の前川孫二郎が述べたように、これは物理学に限ったことではなく、生物学でも全く同じである。 さらにいえば、研究だけでなく、臨床医療においても、何ら異なるところはない。 統計学的検証を経てガイドライン等に記載された内容は、いま我々の眼前にいる患者に、そのまま適用することはできない。 その統計検証の対象とした患者と、我々の患者とでは、背景や状況が異なるからである。 そこで、そうした差異を理論的に検証したうえで、我々は実践に臨まなければならないのである。

こんな当たり前のことを、なぜ、今さら日記に書いたのかというと、先日、学内の某所で五年生の某氏が書いたレポートを拾得し、愕然としたからである。 私は、その学生と面識があり、優秀な人物であるという認識を持っていた。 だが、そのレポートには、ある疾患群の鑑別の手順を、どこかの教科書か何かから丸々転載したような内容だけが記載されていたのである。

ガイドラインを勉強すること自体は、悪くはない。 しかし、特に学生にとっては、そのガイドラインの記述の理論的根拠こそが重要である。 ガイドラインでは多くの場合、統計的なことしか言及されていないが、 そのような統計を調べたからには、何らかの理論的考察に基づく予想があったはずである。 全く理論抜きの統計などというものは、通常、存在しないのである。 その理論の部分を調べ、自分の頭脳で考察してこそ、立派なレポートと言えるのではないか。 仮に教員から「レポートは形だけで構わない」というような指示があったとしても、自発的に調べて考えて記述するのが、学生として当然の行動である。


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