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2015/04/22 名大医学科の臨床実習制度 (2)

六年次の実習については、これもいつから始まったのかは知らないが、基礎医学研究室での活動によって振り換えることができる、という制度もある。 これについては、ますます、意味がわからない。 当局の意図としては、卒業後に基礎研究に進んだり、そうでなくとも、いわゆる「研究マインド」を持った医師を育てたい、ということであろう。 研究室に通えば研究マインドが身につくのか、という点も疑問ではあるが、それについては別の機会に議論しよう。 ここでは、医学科を卒業し、医師免許を持つ者が基礎研究を行うことの意義について考える。

医学科の我々は、理学部などの出身者が修士課程学生として朝から晩まで研究している時期に、五・六年次の学部生として臨床実習に従事している。 卒業すれば、さらに二年間、初期臨床研修を受けるのが大半であるから、正味、四年間は理学部出身者より遅れるわけである。 医師として活動しない人であれば初期臨床研修は省略できるが、それでも二年間は遅れる。 それだけ時間を浪費している我々に、基礎研究者への道を勧める人が少なくないのは、なぜか。

生化学とか免疫学とか、そいういった専門分野における学識の深さ、専門性の高さについていえば、我々は到底、理学部出身者には及ばない。 だいたい、我々は生化学については二年生の頃に少し学んだだけであって、化学ばかり四年間やってきたような連中と、勝負になると考える方がおかしい。 このあたりについて、大学受験時代の偏差値に固執し、医学部が凄いなどと勘違いしている学生が稀に存在するらしく、恐ろしいことである。

我々の武器は、ただ一点、「学識のひろさ」に尽きる。 理学部の連中は、生化学のことはよく知っていても、それが実際に、人体にどう関係するかは、よく知らないのである。 もちろん、教科書的なことは知っており、細胞の増殖シグナルが云々とか、アンモニアの代謝がどうとか、何やら詳しそうなことは言うのだが、 実は彼らは、それらを教科書の中の文言として、あるいは実験室での出来事として知っているに過ぎず、心の底から湧いてきた、実感のある言葉として喋っているわけではない。

我々にもおぼえがあるだろう。たとえば私の場合、はじめて「病理診断」というものを知った時、「検体の固定に一週間ほどを要する」と聞いて、 「フーン、たいへんなんですね」というような感想を持ったし、「固定に時間を要するのは重大な問題である」ぐらいのことは、レポートに書いたかもしれない。 だがこれは、何の実感も伴わない、空虚な感想であった。 いま、臨床実習で少しばかりの経験を積んだ後では、同じように「重大な問題である」という内容をレポートに書くにしても、そこに込もる感情の程度が違う。 患者を一週間待たせることへの申し訳なさ、本当にそれだけの価値があるのかという疑念、固定技術が一向に進歩しないことへの焦燥、 そしてある種の怒りなどを、「重大な問題である」という一言に込めて、書いている。

こうした実感こそが、本当に意義のある研究計画を立案し、遂行するために必要なのではないか。 私の印象では、某大学の小児科教授は、こうした意味での実感の込もった迫力のある講義をする人物である。 その実感にねざした小児科学への情熱こそが、彼の多大なる業績の源泉なのであろう。 単に「論文になる研究」をして「業績」を稼ぐことでいえば、我々は、彼らに遠く及ばない。 しかし、本当に世の中に役立つ仕事をするためには、我々の広い視野が、必要とされているのである。 その視野を磨くための期間が、この学生時代の臨床実習であり、初期臨床研修なのではないか。 それを削って研究室に通うことは、本当に、有益なのだろうか。

ただし、これは名古屋大学だけの問題ではない。たとえば厚生労働省の医系技官になる場合、臨床経験は問われないらしい。 そして、入省後の昇進は基本的に入省後の年次によって決まるため、責任ある役職に就くためには、何年か臨床経験を積んでから入省するのではなく、 大学を卒業してすぐに入省する方が有利だという話を、とある医系技官の人から聴いたことがある。 一体、何のための医系技官制度なのか、理解できない。


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