これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
私は常々、試験対策勉強として、いわゆる過去問を参考に対策を練る行為を批判している。 本件について、同級生諸君の多数などから強い反発を受けているため、ここに、いわゆる過去問を用いた試験対策勉強を批判する理論的根拠を示す。 概ね、以前に散発的に書いた内容と同一であるが、まとめて書くのは、たぶん、今回が初めてである。
過去問を用いた勉強がよろしくない理由は、そうした学習法が学問の正道を歪めている、という一点に尽きる。 仮に、過去問対策を講じる中で「このような勉強法は、本当は良くないのではないか」という疑問を微塵も感じない者がいるとすれば、 その者は、もはや学生としての良心の片鱗すら残していない。 幸いにして、少なくとも名大医学科の場合、ほとんどの学生は、過去問対策を中心とした勉強に一定の疑問を抱いているように思われる。 しかし、過去問を一切無視することには漠然とした不安があるために、なんとなく、周囲との「調和」を重んじ、過去問や予備校に頼っているのではないか。
過去問を用いて対策を講ずれば、安心感は得られ、確実に試験に合格できる。 だが、その一方で実は多くのものを失っているということを、認識するべきである。 予め示された道筋に沿って「効率的な勉強」をすれば、試験には合格し、人並程度か、あるいは人並以上の医師には、なれるであろう。 しかし、そうして先人の後を追うことに長けた「人並以上の医師」と、「世界の最先端を往く医師」との間には、越えられない壁があるのではないか。 次代を拓くためには、自ら問題を発見し、自ら新しい手法を編み出し、自ら道を作る必要がある。 歴史上、大事を成した人物は、例外なく、若年の頃より、そうした開拓精神を発揮してきた。 「まずは基本を身につけてから」などと弁明して姑息な手段に走る者が、ついに大成した例は、私の知る限り、存在しない。
以上のことからわかるように、過去問を閲覧するという行為自体が例外なく不適切である、とまでは、いえない。 たとえば大学などの入学試験は、少なくとも日本の場合、他の受験生との相対評価で合格が決定される。 従って、競争に勝利することを目的として過去問を調べること自体は、やむを得ない面がある。 また、国家試験などの資格試験においても、出題範囲は予め公開され、過去の試験内容も公にされており、それを踏まえて出題されるのであるから、 敢えて過去問をみないのは、不必要なハンディキャップを背負うことになる。 ゆえに、過去の出題内容を把握する目的で、正式に公開された問題を閲覧すること自体は、不正義とはいえない。
ただし、先述の理由により、可能であれば過去問はみずに済ませた方が良い、とはいえる。 また、いわゆる試験対策本に頼り試験対策に特化した勉強をすることは、学問として邪であり、志が低いといわざるを得ない。
医師国家試験に対し、過去問をみずに挑むのはリスクが大きすぎる、という意見には同意する。 私も、厚生労働省が公開している資料ぐらいは閲覧するかもしれない。 だが、それ以上の試験対策は、医学者としての自尊心を傷つけるだけの行為であるから、控えるべきである。 国家試験対策予備校の類を「活用」するのは、自らの耳目を腐らせるだけの愚行である。