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循環器内科学などを勉強していると「静脈還流量が増加し云々」というような記述に遭遇する。 この「静脈還流量」という言葉を、諸君は、どれだけ正しく理解しているだろうか。
医学書院『医学大辞典』第 2 版によれば「静脈還流量」とは「全身の静脈循環から上・下大静脈を経由し, また冠状静脈洞を経由して右心房へ戻る血液の量」をいう。 なお、同じ「かんりゅう」であっても、「潅流」は「組織や器官の血管内あるいは表面に液体を流すこと」であるから、意味が全然ちがう。
一部の教科書には「吸気時には胸腔内圧が低下するため静脈還流量が増加する」などと書かれているらしい。 この記述を読んですぐに納得した人は、抜群の秀才であるか、さもなければ、思慮が不足している。 普通の感性があれば、まず「なぜ、胸腔内圧と静脈還流量が関係あるのか?」という疑問を抱くであろう。 そして、多くの学生は「よくわからないが、教科書にそう書いてあるから、そうなのであろう。」と「納得」するのであって、実に、素直な「良い子」である。
『ハーバード大学テキスト 心臓病の病態生理』第 3 版や `Harrison's Principles of Internal Medicine' 19th Ed. では、明記はされていないが、 次のような理解に立脚しているようである。 胸腔内圧が低くなると、肺循環系の毛細血管や静脈が拡張する。その結果、肺循環系の血管抵抗は低下する。 なお、動脈は、俗にいえば「壁が頑丈である」ために、多少の胸腔内圧変化では明らかな拡張を来さない。 心臓の収縮力は呼吸の状態に依存しないため、結果的に、吸気時は右心拍出量が増加する。 換言すれば、右心室の収縮末期容積が少しだけ小さくなる。 微小な経時的変化を気にしなければ静脈還流量は右心拍出量に等しいから、これは、つまり、静脈還流量の増加になる。
上述の議論の中で、キチンと考えている人は「オヤッ」とか「ムムッ」とか、思ったであろう。 「肺循環系の毛細血管や静脈が拡張するから静脈還流量が増加する」という理屈であるならば、吸気時は呼気時に比して、肺循環系の血液量が増加していることになる。 その増加した血液は、一体、どこから来たのだろうか。
水は血管壁を透過し、組織液との間で往来する。 しかし、この移動は急速には起こらないため、呼吸に伴う血液の分布の変化を議論する際には、血液の総量は一定であると考えて良い。 また、動脈は弾性的に伸縮するが、これは心周期の中で重要な働きをするものの、今回のような呼吸性の変動を議論する際には寄与が小さいので無視できる。 動脈の平滑筋による収縮は、呼吸性の変動と関係あるかもしれないが、この影響は小さいと考えられるし、議論が複雑になるので、今回は無視しよう。
生理学の名著である `Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology' 13th Ed. によれば、 生理的な血液分布の変化において重要な役割を担っているのは、静脈であると信じられている。 その根拠は、動脈や心臓にくらべて静脈は、僅かな圧変化によって大きな容積変化を示す、という事実である。 従って、吸気時には、体循環系の静脈が、ほんの少しだけ、虚脱気味になるであろう。 もちろん、体循環系の静脈は、肺循環系の静脈よりも圧倒的に豊富なので、この変化は僅かであり、 エコー検査などで検出することは極めて困難である。