これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/09/22 いわゆる統計的エビデンス

昨日の記事で、いわゆる統計的エビデンスのことを「砂上の楼閣」と形容したが、これについては若干の補足を要するかもしれない。 というのも、不勉強な医師や学生ほど、「統計的エビデンス」というものを過剰に信用しているように思われるからである。

たとえば、「敗血症に対してグルココルチコイドは無効である」という「エビデンス」を作りたい、と考えたとしよう。 簡単なのは前向きコホート研究を行うことである。通常、軽症例ではグルココルチコイドは投与されないから、 必然的に、グルココルチコイド投与例は重症例ばかりとなり、予後が悪い。 あるいは抗菌薬投与が遅れた症例では必ずグルココルチコイドを投与する、というような方針を採るのも良い。 データが集まった後は、重症度とグルココルチコイドの関係を切り離すためにロジスティック回帰分析などを行うことになるだろう。 しかし、ロジスティック回帰分析は非現実的な仮定に基づいているため、ほんとうは信頼性が低い。 実際、パラメーターを適宜いじれば、かなりの程度、結果を恣意的に操作することができる。 「グルココルチコイド投与例は予後が悪い」という結果を出すことなど、容易であろう。

あるいは、統計誤差が大きくなるように、年齢や重症度、基礎疾患などについて、多様な患者について統計をとるのも良い。 患者がバラバラであれば、結果のバラツキも大きくなり、当然、統計誤差が大きくなる。 そこで患者数を極端に多くし過ぎなければ、統計的には「有意差なし」という結果が出る。 統計学的には、「有意差なし」というのは「差があるのか、ないのか、わからない」という意味であって、何も言っていないに等しいから、 ほんとうは「有意差なし」などという結果には何らの学術的意義もない。 しかし不勉強な医師の中には、なぜか「有意差なし」を「どちらも同じ」という意味に解釈する者が非常に多い。 そのため、「有意差なし」という結果であっても論文として認められるし、「エビデンス」として採用されるのである。 医療関係者以外の人であれば「まさか」と思うような話であろうが、現在の標準的な臨床医の学術水準は、遺憾ながら、その程度なのである。

逆に「敗血症に対してグルココルチコイドは有効である」という「エビデンス」が欲しい場合は、上述の場合とは逆のことをやれば良い。 速やかに抗菌薬投与をできた症例ではグルココルチコイドも一緒に投与する、というようなことをすれば、 グルココルチコイドにより治療成績が向上したようにみせかけることができる。 もちろん、こうしたテクニックは、統計用語でいうところの系統誤差を作っているだけのものであるから、本当は意味がない。 しかし、少なくとも臨床医学の論文では、系統誤差についてはキチンと評価しなくても文句を言われず、「エビデンス」として認められるようである。

中には、いわゆる「N 数」、つまりサンプル数を増やせば誤差は小さくなる、などと信じている者がいるらしい。 しかし、サンプル数の平方根に概ね反比例して小さくなるのは、偶然誤差だけであって、上述の統計誤差は、もちろん、小さくならない。 むしろ、いわゆるメタ解析の場合、質の悪い、系統誤差の大きい研究を含めてしまえば、全体としての誤差は、かえって大きくなる。 そのあたりに留意して、注意深く検討すれば、メタ解析によって任意の「エビデンス」を作ることもできるだろう。

純真な学生や若手医師の中には、そんな悪意で研究をする人はいないだろう、などと思っている者もいるかもしれぬ。 もちろん、それは誤りである。役職や名声を得るために、自称研究者達は、信じられぬほどの不正手段を駆使するものである。 そして、それを知りつつ、互いに指摘しないのが作法なのである。 このあたりのことは、何年か大学院などで過ごした人であれば実感として理解できると思われる。 研究生活の経験がない人は、『背信の科学者たち』(原題 Betrayers of the Truth) という書籍を読んでみると、面白いだろう。


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