これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
基礎代謝 (Basal Metabolic Rate; BMR) とは、安静に、ただ寝ているだけの状態における熱産生量のことをいう。 これは、食事から摂取すべき最低エネルギー量を推定する際に重要な値であるが、臨床的には、測定するのがかなり大変である。 そこで、近似的に基礎代謝を推定するための手法として広く知られているのが Harris-Benedict の式である。 この式は、Harris と Benedict が `A Biometric Study of Basal Metabolism in Man' と題する長大な論文 (Carnegie Institution of Washington Publication, 279 (1919).) で提示したものであり、 その要点は (Proc. Natl Acad. Sci., 4, 370-373 (1918).) で報告されている。 この式は、身長を H [cm, 体重を W [kg], 年齢を A [year] として、
と、近似するものである。 この式は、麻酔科学の R. D. Miller et al., Miller's Anesthesia, 8th Ed. や、 内科学の D. L. Kasper et al., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed., 救急医学の A. Webb et al., Oxford Textbook Critical Care, 2nd Ed. といった名著が、こぞって紹介している基礎代謝の推定法であり、まぁ、世界的に広く認知されていると考えてよかろう。
しかし、ある程度の物理学的素養のある人であれば、この式には、大いに違和感をおぼえるに違いない。 この Harris-Benedict の式が意味するところを考えてみよう。 まず、万人に共通する普遍的なエネルギー消費として男性では 66.5 kcal/day, 女性では 655.1 kcal/day が存在する、ということになる。 これは脳の基礎的な活動などの、個人差の乏しい代謝を反映するものと考えられる。 しかし、この普遍的なエネルギー消費に、これほどの男女差があると考えるのは不自然である。
次に、体重 1 kg あたり男性で 13.8 kcal/day, 女性で 9.6 kcal/day のエネルギー消費があるというが、これは全身の細胞の維持に要する代謝であろう。 この男女差は、脂肪細胞の量などの違いを反映するのだ、と考えれば、理解できなくもない。 問題は、次の、身長 1 cm あたり 5.0 kcal/day、という項である。これは、一体、何を表しているのか。 Harris と Benedict は、身長と基礎代謝には正の相関があり、しかも、それは身長と体重が相関することだけでは説明できない、という事実を統計的に示した。 ただし彼らは、この相関の正体について、生理学的な説明は加えていない。 理論抜きに、ただ統計だけで議論することは危険である、という認識を、Harris や Benedict は、持っていなかったのだろうか。 また、基礎代謝を身長や年齢と一次関数で結びつけることの理論的根拠も、示していない。
一次関数で近似することが妥当なのは、変数が充分に狭い範囲でしか変動しない場合に限られる。 Harris と Benedict の統計は、幅広い年齢、身長、体重の人々のデータから導出したものであるから、この前提を満足していない。 そこで無理に一次近似してしまうと、結果として、「どんな人にもあてはまらない式」になってしまう。 では、Harris や Benedict は、統計学に疎いから、こうした「不適切」な方法で式を導出したのかというと、そうではない。 そもそも Harris と Benedict は、生理学の基礎研究としてこの統計を調べたのであって、臨床的に基礎代謝を推定することを目的とはしていなかったようである。 これが臨床には適さないことなど、はじめから承知した上で、基礎代謝という量の性質を調べる目的で、統計を調べたのである。
応用科学の分野では、こういうことが、しばしば、起こる。 研究者の本来の意図から離れて、よくよく理解していない人々が、不適切な方法で、その業績を「応用」してしまうのである。 また、Harris-Benedict の式が臨床には向かないということを「なんとなく」は認識していても、それを真摯に追究せず、 「なんとなく、だめなのだ」という程度の理解で満足してしまう学生や医師も、遺憾ながら、少なくないように思われる。
「それで臨床は回るのだから、それで良いではないか」と、彼らは言う。 はたして、本当に、回っているのか。