これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
近年、医師の働き方として、QOL だとか、ワークライフバランスだとかいうものを重視する動きがある。 それが悪いことであるとは思わない。過労状態での労働は、過失の温床となり、結局、患者の利益を損なうからである。 ただし、そうしたプライベートの充実は、あくまで医師としての誇り、医学・医療への献身が前提でなければならない。 それはポンペをはじめとして、多くの先人が指摘してきた通りのことである。
特に問題となるのが「誇り」であろう。 医師の誇りについては、山崎豊子が『白い巨塔』で明瞭に描いており、私は名古屋大学時代、いたく感銘を受けた。 以下に引用するのは、胃癌の肺転移を肺炎と誤診されて死亡した患者の病理解剖に際しての描写である。
不意に後方で足音がした。一同が足を止めて、振り向くと、白衣をまとった大河内教授であった。
十二時を過ぎた深夜にもかかわらず、少しの乱れもない毅然とした姿であった。里見と柳原は、一礼して、大河内教授を迎えた。
「先生、深夜に執刀をご依頼して恐縮です」
里見がそう挨拶すると、柳原も深々と頭を垂れて挨拶した。
「いや、解剖とあれば、病理の教授は深夜といえども、即刻に駈けつけて来るのが当り前だ、それより死後何時間、経過しているのだ」
「はあ、それが遺族の気持がきまるまでに時間がかかり、四時間近く経っていますが---」
平然と「深夜といえども、即刻に駈けつけて来るのが当り前だ」などと言い放つことのできる教授が、はたして今の日本に、どれだけ現存しているだろうか。 そして病理解剖まで四時間かかったのを「長い」と言える病理医が、はたして今の日本に、どれだけいるだろうか。
誰であったか忘れたが「病理解剖は、医師が患者に提供する最後の医療行為である」と言った人がいる。 もしかすると「医療行為」ではなく「奉仕」であったかもしれないが、病理解剖では我々が患者に何かを提供するのではなく、 むしろ我々が患者に教えてもらう立場なのだから、「奉仕」というのは正確ではないだろう。 その最後の医療行為を担うという立場に本当に誇りを感じているならば、患者が亡くなったと知れば、義務や責任感ではなく、 自発的感情として「ただちに会いに行きたい」と思うのが当然である。
若い研修医や学生などと話していると、こうした誇りを持たぬ者が稀ではないように思われる。 診断や治療の至らない点を指摘されても「そんなの、無理だよ」「仕方ないじゃないか」「君の言うのは理想論であって、非現実的だ」 「医者にも生活があるのだ」などと抵抗する者は少なくない。 あなた方は、それでも医者なのか。