これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
ある人から教えられて、Yahoo ニュースの「日本で「学歴」は意味を持つか」という特集を読んだ。 「現代における「学歴」の意味と重要性とは。4 人の識者に聞いた。」という触れ込みであるが、 「識者」とは、浄土真宗の僧侶、「リクルート」グループの研究員、コラムニスト、社会学者、であって、自然科学系の人は含まれていない。
僧侶氏は、大学院博士課程修了者が、学部卒のみの者に比して就職できない、という異常な現状を指摘している。 それは良いのだが、次のように述べている点は、理解できない。
しかし高学歴の学生側も、企業採用や研究機関の仕組みが変わるのをただ待っているだけでは、道が開けないということを理解した方がいい。 研究者を目指すのであれば、academist などの学術系のクラウドファンディングを活用して市民から資金を募り、フリーの立場から研究を続けていくのもいいでしょう。
文中の academist とは、こちらのプロジェクトのことであろう。 これは、いわゆるクラウドファンディングによる資金調達を支援するものであるが、成功事例でさえも、高々 200 万円程度しか集まっていない。 大学や企業などで給与や一定の研究費を与えられているのであれば、これを補助的な財源として用いることもできようが、 一体、どうすれば、この程度の資金でフリーの立場からの研究ができよう。 「国や大学に“食い扶持”を頼る発想を捨てれば、より自由に学問を続けることができる時代でもあります。」とも述べているが、 一体、どうやって生活費を捻出すれば良いのだろうか。 大学の教授陣が、ほとんど例外なく、研究予算獲得のために東奔西走、四苦八苦している現状を、理解しているのだろうか。 僧侶であるなら、学術研究の現状について門外漢なのは無理からぬことである。しかし、それを「識者」として、こういう場に登場させるのは、いかがなものであろう。
コラムニスト氏も、よくわからないことを述べている。
今、東大に進学する高校生のほとんどは、中高一貫の有名私立校出身者で占められている。 私たちの頃は、いい大学に行けるかどうかの線が引かれるのは、高校3年、大学受験のときでした。 ところが今は、12歳でもう線が引かれる。公立中学に行くか、そこそこ意識の高い学校に行くかで、大きく分かれてしまいます。 しかも、それを分けさせているのは本人の勉強の出来不出来ではなく、親の経済力だったりしますから、いかんともしがたい。
元記事に掲載されている「2016 年 東大合格者ランキング」の表によれば、 1 位は開成高等学校で 170 名、2 位が筑波大学附属駒場中・高等学校の 102 名、 3 位が灘高等学校と麻布中学校・高等学校で各 94 名、とある。 開成と灘が「中学校・高等学校」とされていない理由は、知らぬ。 なお、我が母校が不名誉にもランクインしている件については一年ほど前に弁明した。
いわゆる中高一貫進学校で、東京大学への進学者の割合が比較的高いのは事実である。 しかし、詳しい統計は引用しないが、実際の東京大学や京都大学の入学者の中には、公立高校出身者がかなり多い。 コラムニストのいう「ほとんどは、中高一貫の有名私立校出身者」というのは、言いすぎである。 さらにいえば、公立中学に行くか「意識の高い学校に行くか」が親の経済力で決まる、というのも嘘である。 経済力さえあれば開成や筑駒、あるいは桜蔭に入れるとでも言うのだろうか。 小学校を卒業する段階で既に、学問の下地の形成において相当の差がついている現実を、正視するべきである。
社会学者氏は、大学で何を学んだかが重要だ、というようなことを述べており、それには同意できる。 しかし「成績評価を厳しくした上でGPAをつけていけば、大学をまたぐ一定の共通評価ができる。」などと言っている点は、理解できない。 大学で学ぶ内容というのは、点数化して評価できるような、単純なものなのだろうか。
私の工学部時代の成績は、典型的な「京都大学パターン」であった。 すなわち、「不可」が多い一方で、合格した科目は「優」と「可」に分かれ、「良」が少なかった。 中途半端を嫌い、くだらぬと判断した授業は放棄し、必修科目を低空飛行でくぐり抜け、一方で、面白いものには全力を投入するのが、京都大学の伝統なのである。 そういう価値観を、無意味だと言うのか。