これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
髄膜炎菌 Neisseria meningitidis と淋菌 Neisseria gonorrhoeae は、環境中で死滅しやすく、培養しにくいことで有名である。 臨床検査上は、これらの細菌は低温で死滅しやすいと考えられているようである。 少なくとも北陸医大 (仮) では、これらの細菌の培養を目的とする検体は冷蔵保存しないよう取り決められている。 この「低温に弱い」というのは、本当だろうか、というのが本日の話題である。
まず教科書の記載を確認する。 学生向けの教科書である医学書院『標準微生物学』第 12 版 (2015). では、髄膜炎菌について 「本菌は低温に弱いので, 採取した検体は冷温保存してはいけない.」とあり、 また医学書院『標準臨床検査医学』第 4 版 (2013). でも髄膜炎菌は「低温で死滅しやすいため, 検体は冷温に保存してはいけない.」とある。 しかし、いずれの教科書でも、淋菌が低温に弱いとは記載されていない。
もう少し格調高い教科書である南山堂『戸田新細菌学』改訂 34 版 (2013). をみると、 いずれの菌種についても、高温や乾燥に弱い、とは記載されているが、低温に弱いとは述べられていない。 特に、淋菌については「培地上のコロニーは室温で 2 日, 4 ℃では 10 日以内に植え継ぐ必要がある。」としており、 特に低温で死滅することはなさそうである。 さらに、Bennett JE et al., Mandell, Douglas, and Bennett's Principles and Practice of Infectious Diseases 8th Ed., (2015). にも、 特にこれらの細菌が低温に弱いというような記載はない。
そこで過去の研究報告を調べてみたのだが、細菌学はドイツ語圏で発達したという歴史的経緯のせいか、英語や日本語の文献は、比較的、少ない。 まず淋菌については、Brit. J. vener. Dis., 52, 246-249 (1976). によると、温度が高いほど死滅しやすいようで、 37 ℃ や 22 ℃ に比べると、0 ℃の方が保存に適するようである。 その理由は、J. Bacteriol. 122, 385-392 (1975). によれば、低温では自己融解酵素の活性が低下するからである。 髄膜炎菌はどうかというと、Acta Pathol. Microbiol. Scand. Sect. B 92, 73-77 (2984). によれば、こちらも淋菌と同様、温度が高いほど死滅しやすいようである。 さらに、Zbl. Bakt. Hyg., I. Abt. Orig. A 236, 16-21 (1976). によれば、4 ℃ よりも -20 ℃の方が保存に適するようである。
このように、細菌の性質としては、いずれの菌種も、特に低温に弱いということはなさそうである。 一方で、J. Clin. Pathol. 37, 428-432 (1984). によれば、脳脊髄液には髄膜炎菌の増殖を抑制する作用があるらしい。 何らかの抗菌ペプチドのようなものが含まれているのであろう。 この抗菌ペプチドのために、脳脊髄液などを低温保存した場合に髄膜炎菌が死滅する、という可能性はある。
ところで、Neisseria という名称は、発見者の Albert Ludwig Sigesmund Neisser に由来する。 彼の業績については Semin. Pediatr. Infect. Dis., 16, 336-341 (2005). に、まとまった記事がある。 彼は淋病の原因菌と考えられる細菌を分離したが、この細菌が淋病を引き起こすことまでは確認できなかった。 これを確認してコッホの 4 原則を満足させたのは、スイスの Ernst von Bumm とウィーンの Ernst Wertheim であるらしい。 なお、Neisser は、癩病の原因菌たる癩菌 Mycobacterium leprae の発見を巡って Hansen と争ったことでも有名である。 癩菌を初めて分離したのは、間違いなく Hansen である。Neisser は、その検体を Hansen から譲り受け、詳細に観察して単一の細菌であると示した。 そのために、癩菌の第一発見者はどちらなのか、という問題が残り、両者譲らず、大喧嘩になったようである。