これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/10/07 Mohs 顕微鏡手術

Mohs 顕微鏡手術と呼ばれる手術法がある。これについては昨年、書いた。 当時の記事では「多くの皮膚科医や形成外科医らは、この手法に懐疑的であるらしい。」と書いたのだが、これは誤りのようである。 この私の記述は Rosai J, Rosai and Ackerman Surgical Pathology, 10th Ed., (2011). の次の記載に基づいて書いたものであった。

Somebody has commented that the statements made by many Mohs surgeons regarding the merits, superiority, and uniqueness of their technique have alienated "the great majority of dermatologists, plastic surgeons, [and] head and neck surgeons". I would like to add "pathologists" (at least one of them) to that list.

しかし、この Ackerman の記述には語弊がある。これは N. R. Friedman の記述 (J. Am. Acad. Dermatol., 19, 908 (1988).) を引用したものである。 元の文献を調べると、実は Friedman は、「再発した基底細胞癌には全例 Mohs 顕微鏡手術が良い、というのは言い過ぎであって、 多くの再発した基底細胞癌には Mohs 顕微鏡手術が良い、とするのが正しい」という文脈で majority of dermatologists に言及しているに過ぎない。 つまり、少しばかり過大な宣伝が行われている点に苦言を呈する皮膚科医もいる、という程度の意味であって、 米国の皮膚科医の多くは Ackerman とは異なり、Mohs 顕微鏡手術の有効性自体は認める立場のようである。

実際のところ、英国の皮膚科学の名著である C. Griffiths et al., Rook's Textbook of Dermatology, 9th Ed., (2016). でも、 ドイツの皮膚科学の名著である Burgdorf BHC et al., Braun-Falco's Dermatology, 3rd Ed., (2008). でも、 また日本の著名な教科書である 清水宏『あたらしい皮膚科学』第 2 版 (2011). でも、Mohs 顕微鏡手術は、 費用はかかるが有効な手術法として紹介されており、否定的意見は記載されていない。 論文検索しても、Mohs 手術の有効性を唱える報告は多いが、この手法を積極的に攻撃する報告は、みあたらない。

余談だが、私は Braun-Falco の教科書は所有しておらず、北陸医大 (仮) の図書館にも最新版は所蔵されていない。 そこで他大学の図書館からの取り寄せを依頼したところ、名古屋大学図書館のものが届けられた。 みると、スピン (紐) が、Mohs 手術のページに挟まれている。 たぶん、私が昨年の記事を書く際に開いた時のものであろう。 当時のことが懐しく思い出されると共に、この一年間、この書物を開いた学生が一人もいなかったのではないかと、寂しくもあった。

閑話休題、Ackerman では、昨年の記事で紹介したような内容の批判が Mohs 手術に対して加えられているが、 一方で、Mohs 手術は予後が良い、という統計データも報告されている。 これらの統計の信憑性は不充分であるとはいえ、どちらかといえば、Ackerman の方が旗色が悪いように思われる。 Ackerman は、明確な根拠を示さずに「Mohs 手術の科学的妥当性は疑わしい」と述べて Mohs 手術を攻撃しているのだが、一体、なぜ、そう考えるのか。

この問題について解答を与えてくれたのは、米国の J. D. Seidman らの報告 (Mod. Pathol., 4, 325-330 (1991).) である。 この文献は北陸医大に所蔵されていないので取り寄せ中なのだが、Abstract を読むだけでも充分である。 Seidman によれば、基底細胞癌を切除する際には、断端が陽性か陰性かという問題よりも、病変が連続的か不連続か、という問題の方が重要だ、というのである。 冷静に考えれば、そんなことは理論的に当然なのであって、むしろ、それが 1991 年になるまで指摘されなかったという事実の方が驚きである。

読者の中には専門外の人も少なくないであろうから、もう少しばかり、補足説明がいるだろう。

Mohs 手術の目標は、断端陰性となる最小の範囲で腫瘍を切除する、ということである。 断端陰性とは、切除面に腫瘍細胞が存在しない、という状態のことをいう。 もし断端陽性であれば、腫瘍の取り残しがあるということになるから、再発のリスクが高いので、断端陰性となるように切除するのは自然な発想である。 しかし、たとえ断端陰性であっても、腫瘍の本体から不連続に浸潤する病変が存在する場合には、その部分を取り残し、再発する恐れはある。 Seidman が指摘したのは、このことである。

皮膚癌のうち有棘細胞癌も Mohs 顕微鏡手術が適するとされることがあるが、これも、理屈としては、おかしい。 有棘細胞癌は明確に悪性であり、不連続な浸潤を生じるのであるから、断端陰性であることは、病変の取り残しがないと考える根拠にはならない。

Ackerman が「科学的妥当性が疑わしい」と書いているのは、この点であろう。 断端陰性となる最小範囲で切除する、という Mohs 手術の基本的な考え方自体が、理論的に不適当なのである。


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