これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/12/25 組織診

世間では降誕祭の季節であったが、私は、聖書を信仰するキリスト教徒ではなく、教えの本質を聖書の文言以外の部分に求める「類キリスト教徒」であるから、 この日を特別視しない。

一昨日の記事の続きである。 先日は、病理診断と形態学的診断は同一に非ず、という話を書いた。 では、なぜ我々病理医は、かくも組織診に拘るのか、というのが本日の話題である。

結論を先に書くと、我々が組織診を重視するのは、それが、病変を直接的に観察する、現状では唯一の手段だからである。 たとえば細菌性肺炎について考えよう。 中途半端に「総合診療」を学んだ学生や研修医であれば、詳細な聴診をはじめとした身体診察で、9 割以上正しく肺炎を診断できる、と豪語するであろう。 また、胸部 X 線画像や CT などで、いわゆる「肺炎像」が認められれば、多くの研修医は「肺炎である」という自信を強めるのではないか。

ここで、本当に優秀な学生や研修医であれば「『肺炎像』とは、一体、何のことを言っているのか」と批判するであろう。 「肺炎像」という語は、若い医師を中心に一部の臨床家が好んで用いるものであるが、キチンとした医学書には記載されていない。 もちろん、定義は曖昧で、よくわからない。 「コンソリデーション」あるいは「浸潤影」と同義なのか、と問えば、たぶん、彼らは「いや、そういうわけではなくて……」などと、曖昧な返事をするであろう。 要するに、意味もわからずに、アヤシゲな他人の言葉の受け売りで「肺炎像」などと言っているのである。

閑話休題、身体診察所見や画像所見で「細菌性肺炎である」と断定するのは、シロウトに毛が生えた程度の医者である。 本当に放射線医学や呼吸器内科学を識っている医師であれば、断定はせず、肺癌などの可能性を常に念頭に置いている。 というのも、身体診察や画像診断では、肺炎と肺癌は鑑別不能だからである。 身体診察上の異常な呼吸音は「気道が何かおかしい」という程度の情報しか含んでいない。 X 線画像でみているのも、何らかの炎症の結果として生じた滲出液に過ぎず、それがいかなる病変であるのか、直接的証拠にはならない。 医療技術は進歩しているようにみえるが、病変そのものを観察する手段は、現代においてもなお、生検以外には存在しないのである。

病変を直接観察することなしに、どうして、それが細菌性肺炎であると断定できようか。 どうして、肺癌の可能性を否定できようか。 身体診察や簡単な画像所見は、医療資源の限られた僻地や、プライマリ・ケアの最前線においては患者スクリーニングに有益である。 しかし、それに頼った診断は、常に一定割合の誤診をもたらすことを留意しなければならない。

もちろん、臨床的に、全例を生検するべきではない。患者にとって不必要な侵襲となるからである。 だが、生検することなしに、間接的な観察のみで、あたかも自分が病変の性状を理解したかのように誤解してはならぬ。 「臨床的にそうするしかないのだから、それで良いだろ」などと言って診断を疎かにする医師も稀ではないが、そうした態度が不適切な治療をもたらし、患者に害を為すのである。 そして、臨床医を、そうした錯覚から引き戻してやることは、我々病理医の責務である。


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