これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/10/03 細胞の分化について

細胞の「分化 differentiation」とは、医学書院『医学大辞典』第 2 版によれば 「多細胞生物個体の発生過程において, 部域, 器官, 組織, 細胞の間に形態的, 機能的な差異を生じること。」とある。 しかし、この記述は、いささか不正確であろう。 というのも、通常、「分化」という語は「個体の発生過程」に限定せず、多分化能を持つ幼若な細胞が、 他種の細胞とは異なる機能を持つ成熟した細胞に変化する過程のことを言うからである。 リンパ球におけるクラススイッチや体細胞超突然変異を別にすれば、分化はゲノムの変化を伴わない、いわゆるエピジェネティックな過程であると信じられている。 すなわち、DNA の塩基配列は変化せず、化学的修飾などによる遺伝子発現パターンの変化によって生じているらしいのである。 現代生物学を修めた我々は、これを、あたかも当然のこと、常識として認識しがちであるが、冷静に考えれば、 分化に際してゲノム上の何らかの変化を伴っていても不思議ではない。

細胞の分化については、血液細胞において、よく研究されている。 Alberts B. et al., Molecular Biology of the Cell, 6th Ed., (2015). によれば、多分化能を持つ造血幹細胞は、まず骨髄球系前駆細胞とリンパ球系前駆細胞に分化し、 骨髄球系前駆細胞は巨核球系前駆細胞と顆粒球探求系前駆細胞に分化し、という具合に、stepwise に分化する、という。 ただし、この「stepwise である」という記述の根拠を、私は知らない。 理屈としては、実は分化は全て連続的に起こっているのだが、我々が形態的に類似した分化段階の細胞をまとめて同種の細胞と認識しているが故に、 観察上、stepwise な過程であるようにみえているだけだ、という可能性もあるのではないか。

これは、もちろん第一には、基礎医学的な知的好奇心という意味において重要な問題なのであるが、実は臨床的にも重大な意味がある。 急性前骨髄球性白血病 (Acute Promyelocytic Leukemia; APL) は、前骨髄球が腫瘍化したもの、と考えられている。 前骨髄球というのは、好中球の前駆細胞であり、形態学的には、やや好塩基性の細胞質にアズール顆粒を持つことを特徴とする。 白血病というのは、もちろん、血球が腫瘍化する疾患をいうのであり、赤芽球系や巨核球系の腫瘍も含む。 急性白血病とは、白血病のうち、血球の分化が途中で止まるものをいい、慢性白血病とは、一応は分化が最終段階まで進行するものをいう。 MEDSi 『ハーバード大学テキスト 血液疾患の病態生理』では、急性白血病を来すには 細胞の異常増殖を促す「クラス 1 の変異」と、分化を停止させる「クラス 2 の変異」の両方が起こらねばならない、という仮説を述べているが、 理論上、これは自然な考えである。

急性前骨髄球性白血病では、t(15; 17) (q22; q12) 転座などによる PML/RARα 融合遺伝子の形成がみられる。 K. Kaushansky et al., Williams Hematology, 9th Ed., (2016). によれば、PML はどうやら癌抑制遺伝子であるらしく、 PML/RARα 形成によりこれが機能障害を来し、すなわちクラス 1 変異となる。 一方、RARα というのは Retinoic Acid Receptor α、つまりレチノイン酸受容体の一部をコードする遺伝子であり、 リガンドとの結合により細胞の分化を促す作用を持つ。 PML/RARα になると、レチノイン酸との親和性が著しく低下するらしい。 この意味では、PML/RARα の形成は、クラス 2 の変異でもある。 つまり、PML/RARα の形成は、クラス 1, 2 両方の変異を兼ねているのである。

問題は、ここからである。 急性前骨髄球性白血病においては、しばしば、腫瘍細胞にアウエル小体と呼ばれる針状構造物が出現する。これはアズール顆粒が変性したものであるらしい。 「ハーバード大学テキスト」では、本疾患について「細胞の成熟停止は, ほぼ完璧にみられることも, 部分的であることもあり, 症例でさまざまである.」とあるが、 臨床的には、本疾患は急性白血病であり、腫瘍細胞は成熟した好中球にまでは分化しない。 換言すれば、未治療の段階では、分化した好中球にアウエル小体がみられることは、ない。 念のために補足すれば、本疾患に対する治療としてレチノイン酸大量投与を行うと、親和性が低いなりに PML/RARα が働き、腫瘍細胞の分化が促される。 その結果としてアウエル小体を有する成熟好中球が出現するのは、自然なことである。

話を元に戻す。 もし仮に、細胞の分化というものが stepwise ではなく連続的であるならば、いくら PML/RARα のレチノイン酸に対する親和性が低いとはいえ、 分化は緩徐に進行し、従って、未治療であっても腫瘍細胞の一部は成熟好中球にまで分化するはずである。 一方、分化が stepwise であるならば、つまり分化は進行するか進行しないかの all or none の現象であるならば、 腫瘍細胞では分化が完全に停止し、一般に言われているように、未治療でアウエル小体を有する成熟好中球は生じない。 この場合、たとえば「アウエル小体を有する成熟好中球が存在する」という根拠で「急性骨髄球性白血病ではない」と判断することができる。 この意味において、分化が stepwise かどうか、という問題は、臨床的にも重要なのである。

実際のところ、どちらが正しいのかは、知らぬ。


戻る
Copyright (c) Francesco
Valid HTML 4.01 Transitional