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病理医の卵に過ぎぬ私が、病理診断の真髄について書くなどというのは、おこがましい、と言えなくもない。 しかし、卵だからこそみえること、ひとたび孵化すれば見失ってしまうことも、あるのではないか。
出典は覚えていないが、pathologist と morphologist は違う、という話を、どこかで読んだことがある。 顕微鏡などを用いた形態学的観察は、病理診断のための手段の一つに過ぎないのであって、それ自体は病理診断の本質ではない、という意味である。 では、病理診断の本質とは、何か。
「病理診断」とは、病理学に基づく診断、という意味である。 病理学とは、病の理を詳らかにする学問のことである。 あまり一般的な語ではないが、「理論医学」という言葉に置き換えても良いだろう。 「病理診断」と対になるのは「臨床診断」である。 臨床診断においては、厳密な論理は要求されないのが普通であり、かなりの程度は経験則に頼って行われる。 これに対して病理診断では、厳格な論理、英語でいうところの reasoning が求められるのであって、それこそが病理診断の本質である。 それ故に、病理診断は確定診断である、とか、最後は病理で決まる、とか言われるのである。
具体例を挙げよう。52 歳の女性の乳房に硬い腫瘤があり、マンモグラフィで明瞭なスピキュラがあり、 そして超音波検査で辺縁不整な低エコー腫瘤がみられたならば、多くの臨床医は、乳癌を強く疑うであろう。 中途半端に「総合診療」などを修めた学生や研修医であれば「乳癌に間違いない」とまで言うかもしれぬ。 しかし冷静に考えれば、上述の所見は、いずれも癌に特異的なものではない。 これを「乳癌」と決めつけるのは、9 割方正しく診断できれば、残り 1 割の患者については誤診しても構わない、という、無責任な態度である。
我々は、違う。 診断を行う際には、その診断が間違いない、という証拠を提示する。 たとえば、標本中に著明な核異型、組織異型をみたとする。それを「異型が強いなら、それは経験上、癌である」と考えてしまったら、それは病理診断ではない。 論理的でないからである。 病理診断とは、次のような論理を展開することをいう。
細胞の極性の消失は、細胞膜蛋白質の生理的発現パターンが失われている証拠である。 核異型は、染色体の正常構造が失われている証拠である。 そうした異常な構造を有する細胞は、通常であれば、アポトーシスするはずである。 それが増殖しているという状況は、細胞の自律的増殖、すなわち腫瘍以外には存在しない。 そして現に蛋白質の発現パターンに著明な異常が生じている以上、仮に現時点で浸潤がなかったとしても、 浸潤能を獲得した細胞が出現することは時間の問題である。 従って、これは臨床的には浸潤能を有する上皮性腫瘍、つまり癌であると考えるべきである。
もちろん、病理診断レポートに、イチイチこんなことを書いていたら、読む方も嫌になってしまうから、実務上は「異型があるから、癌だ」というように書く。 しかし、それを書いている病理医の頭の中では、上述のような論理が述べられているのである。 これが、病理診断である。 論理構造を放棄して、経験に基づくパターン認識で診断するだけなら、技師やコンピューターで充分であり、病理医など不要なのである。