これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/03/29 BLNAR とアンピシリン

昨日の話題の続きである。 β-lactamase non-producing ampicillin resistant (BLNAR) Haemophilus influenzae による肺炎に対しアンピシリンを治療薬として選択することは、実は、それほど不合理ではない。

そもそも、細菌の「抗菌薬耐性」という言葉の意味は、曖昧である。 臨床的には、「耐性」の指標として、最小発育阻止濃度 (Minimum Inhibitory Concentration; MIC) などが用いられる。 ある抗菌薬の、ある細菌株に対する MIC とは、その抗菌薬の濃度がどれだけ以上であれば、その株が発育しなくなるか、という濃度のことである。 つまり、MIC が大きいということは、その抗菌薬が多量に存在しなければ、その株の発育を阻止できない、ということであって、これを「耐性がある」と言う。 具体的に、どれだけの MIC であれば「耐性株」と呼ぶのかについて、一般的な指標は存在しない。 すなわち、「耐性」の定義は、はなはだ主観的なのであるが、細菌学に詳しくない医師の中には、このあたりを理解していない者が少なくないように思われる。

BLNAR H. influenzae のアンピシリン耐性の場合、MIC が 4 μg/mL 以上であるものを耐性と呼ぶことが多いようである。 ただし、BLNAR と一口にいっても株によってゲノムやプラスミドは多様であるから MIC は一定ではなく、 中には MIC が 2 μg/mL 程度の「軽度耐性」とでも呼ぶべきものもあるらしい。 「高度耐性」の BLNAR に対するアンピシリンの MIC がどの程度であるのかは、よくわからないのだが、たぶん、高々 8 μg/mL ないし 16 μg/mL ではないかと思われる。 この仮定に基づけば、たとえ BLNAR といえども、20 μg/mL とか 40 μg/mL とかいった高濃度のアンピシリンに曝されれば、死滅するのである。

さて、アンピシリンは、肺組織への移行性が非常に優秀であるらしい。 肺切除手術を受ける患者の協力を得て行われた検討 (Infection 18, 307-309 (1990).) によれば、 常用量、つまり 2 g のアンピシリンを投与された患者において、肺組織中の濃度は 1.5 時間ほどかけて血清中濃度と同程度にまで上昇し、 2-4 時間経った時点で血中濃度より高く 27 mg/kg 程度であったという。 ただし、この報告では血清中濃度と肺組織中濃度の比の測定結果は記載されておらず、また個人差も大きいため、誤差が大きいことには留意が必要である。 従って、あまり具体的な数値は議論できないが、概ね血中濃度と肺組織中濃度は等しいと近似してよかろう。

アンピシリンの血中濃度半減期は、短い。患者の全身状態などによって変動はあるものの、分布相の血清中濃度半減期は 5 分程度、 消失相の血清中濃度半減期は 55 分程度のようである (Chemotherapy 36, 149-159 (1988).)。 その結果、1 回 2 g のアンピシリンを経静脈投与すると、直後の血清中濃度は 100 μg/mL を超えているが、2 時間後には 10 μg/mL 程度、4 時間後には 2 μg/mL 程度になる。 薬物の血中濃度の経時的変化には個人差も大きいが、たとえ MIC 8 μg/mL の BLNAR であったとしても、投与後の 2 時間程度は MIC 以上の血清中濃度が保たれることになる。

ところで、アンピシリンを含めペニシリン系抗菌薬は、細菌のペニシリン結合蛋白質、すなわちトランスペプチダーゼと共有結合することで、非可逆的に、この酵素を阻害する。 従って、アンピシリン投与後の 2 時間は BLNAR の細胞壁合成は阻害され、殺菌作用が発揮されるのである。 この薬を一日に 4 回投与するとすれば、一日のうち 8 時間以上は MIC 以上の血中濃度が保たれることになるのだから、それなりの効果を発揮すると期待できる。

もちろん、予め BLNAR とわかっていれば、敢えてアンピシリンを使う理由はない。 しかし、既にアンピシリンの投与を開始した後で BLNAR と判明した場合、かつ、H. influenzae が原因菌であるという確証はないような場合であれば、 そのままアンピシリンで押しきるという戦略は、不適切とまではいえないのである。


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