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2017/03/17 虚血性大腸炎

虚血性腸炎、という診断名がある。英語でいう ischemic colitis の訳語なので、ほんとうは虚血性大腸炎とする方が正しい。 中途半端に勉強した学生や研修医の中には、これを「命には障らないような軽症の腸炎である」と思っている者が稀ではないであろう。 一方、米国産のマジメな教科書を開くと、ischemic colitis は軽い腸炎である、というような記述は、みあたらない。

Kumar V et al., Robbins and Cotran Pathologic Basis of Disease, 9e (2015). では「適切に治療しても、患者のうち 10 % は 30 日以内に死亡する」としている。 また、Podolsky DK et al., Yamada's Textbook of GAstroenterology, 6e (2016). も「致死率は 12.7 %」という統計を紹介している。 適切な治療をしても 1 割の症例は致死的である、となれば、かなり重篤な疾患である。 上述のような日本の学生や一部の研修医の間に広まっている認識との間に、なぜ、このような乖離があるのか。

そもそも「虚血性大腸炎」とは、いかなる疾患概念であるか。 病理診断学の聖典 Rosai J, Rosai and Ackerman's Surgical Pathology, 10e. (2011). では、この診断名について、明確な定義を与えていない。 暗に「虚血による腸炎」という意味合いで ischemic colitis という語を用いているようであり、動脈硬化症や糖尿病、あるいは血管炎などによって生じる、としている。

ところが臨床的には、必ずしもこの意味で ischemic colitis という診断名は用いられていない。 上述の Yamada では、急性腸管虚血を、主として小腸に生じる mesenteric ischemia と、大腸に生じる ischemic colitis に大別している。 朝倉書店『内科学』第 10 版でも、「腸管虚血 (mesenteric ischemia)」と「虚血性大腸炎 (ischemic colitis)」とは別疾患として扱われている。 さらに「腸管虚血」を「閉塞性」と「非閉塞性」に区分している点も、Yamada と朝倉とで共通している。 ただし「非閉塞性腸管虚血」と「虚血性大腸炎」の違いについては、明確な記載がない。 なお、この「朝倉内科学」の最新版は第 11 版であるが、現時点では分冊版のみが発売されており、私は来月発売される、一冊にまとまった机上版を購入予定なので、 ここでは前版を参照した。

さて、診断名としての ischemic colitis の名称を唱えたのは英国の A. Marston らであり、これを gangrenous, ischemic stricture, transient, の三型に分類した (Gut 7, 1-15 (1966).)。 朝倉では、このうち予後が比較的悪い gangrenous, つまり壊死型について「ほかの 2 型 (非壊疽型) と異なり不可逆的な腸梗塞をきたすので, 日常臨床では虚血性大腸炎 (狭義) の概念より除外するのが一般的である.」としている。

要するに、日本においては「虚血による腸炎のうち、重症化するものは虚血性大腸炎とは呼ばない」という習慣があるために、 「虚血性大腸炎は軽症である」ということになるのである。 しかし、いわゆる壊疽型と非壊疽型とは、病理学的に決定的な相違があるわけではなく、臨床的にも明確な区別がつかないのだから、これは無意味な区分である。 実際、いささか古い文献ではあるが、1993 年に多田らは「(いわゆる壊疽型を虚血性大腸炎に含めるかどうかは) 必ずしも統一されていない. むしろ混乱して "虚血性腸炎" として用いられているのが現状ではなかろうか」と書いている (胃と腸 28, 889-897 (1993).)。

このように「虚血性大腸炎」なるものは定義が曖昧で、単一疾患ではないどころか、症候群であるかどうかすら、怪しい。 診断基準を提唱した者はいるが、そもそも疾患概念が曖昧なのに、診断基準など確立できようはずがない (胃と腸 28, 899-911 (1993).)。 実際、「虚血性大腸炎」という診断名には感染性腸炎を含めないのが多数意見であるにもかかわらず、臨床的に「虚血性大腸炎」と診断される症例には 少なからずウイルス性腸炎が含まれている疑いがある (胃と腸 48, 1746-1752 (2016).)。

このように、虚血性大腸炎というのは、病理学的実態を伴わない便宜上の診断名に過ぎない。 「虚血性大腸炎の予後は良い」などという発言は、自身の医学的見識の低さを露呈することになるので、慎しんだ方がよろしかろう。


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