これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/03/11 診断

医師の仕事は、「診断」と「治療」に大別できよう。厳密には、この他にも「説明」などもあるが、これらは診断や治療に付随するものであって、仕事の中心ではない。 医学科生や若い研修医などの間では、診断よりも治療の方に関心が強い者が多く、結果的に、診断過程よりも治療手技の修得に力を注ぐ者が多いように思われる。 病理医や放射線診断医といった診断特化型医師を目指す者は、少数派である。 治療に強い関心を寄せること自体は特に悪いことではないが、「とにかく治れば良いのだ」とばかりに、診断を軽視するようになると、これは不適切である。

ときどき耳にするのが、診断が難しい症例について「いずれにせよ、治療方針は変わらないから、正確な診断は不要である」とか、 「はっきりした診断はできないが、とりあえず今できることは……」といった論法である。 これらは、表面的には、臨床医療における判断と実践のあり方として不適切とはいえない。 しかし、正確な診断を放棄して、いたずらに手技に走ることを正当化するための論理として用いるならば、不当である。

診療の原則として、診断なしに治療方針が決まることは、ない。 これは、あたりまえのことであって、いまさら説明する必要はないと思う。 救急医療に限れば、時間の制約から、診断の定まらない状態である程度の治療を行わねばならないこともあるが、それでも治療と並行して診断を進めるのが基本である。 実際、中堅以上の医師が、上述のような論理で診断を曖昧に済ます場面を、私はみたことがない。

しかし学生や一部の研修医と話していると、担当患者についての診断根拠について「上の先生が、そう言っていた」という論理を持ち出されることが稀ではない。 診断の論理、理屈を、自身の頭では検討していないのであり、実によろしくない。 一部に誤解している者がいるようだが、診断というのは、経験によって行われるものではない。 背景に経験の蓄積はあるかもしれぬが、最終的には、整然とした論理を構築することによって形成されるのが医学的診断である。 本当に正しい診断であるならば、その理屈は、学生にでも理解できるはずである。 それを「上の先生が、そう言っていたから」などと言っているようでは、いつまでたっても、自分で診断することはできない。

何より、「上の先生」の診断を鵜呑みにして、自身の頭脳で納得することなしに、治療に関与することができるという精神の態様自体が、問題である。 こういうことを書くと、「まだ経験が浅く、勉強不足だから、診断などはできないし、間違ったらいけないから」と弁明する者も多い。

逆なのである。 むしろ学生や研修医のうちこそ、自分の頭で診断するように努めるべきである。 学生や研修医の診断を鵜呑みにする指導医など、いない。 我々が自力で診断を試み、それが誤っていたなら、指導医は、それのどこがどう間違っているのか、指摘してくれるはずである。 ただし、看護師等は研修医の診断を鵜呑みにする可能性があるから、カルテ等の記載には注意が必要である。

正直に書くと、私は、誤った診断をカルテに記載し、患者に迷惑をかけたことがある。 入院理由とは別の、入院前からある副病変について、私は、軽微な病変であると誤診して「経過観察で良いと考える」と書いた。 たぶん指導医も私の診断にひきずられたのであろうし、看護師も、私の記載をみて主治医に相談するのを躊躇したのであろう。その病変に対しては、特に何の処置も施されなかった。 誤診した二日後に、私自身が「これは、おかしい」と気づき、主治医に「○○の可能性を否定できない」と報告し、ようやく対応して事なきを得た。 診断の容易ではない病変であったとはいえ、後から思えば、当初の私の診断論理は医学的に不当であって、あの時点で「○○の可能性は否定できない」と記載しておくべきであった。 患者には「もっと早く気づけなくて申し訳ありません」と謝罪し、許していただいた。


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