これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/02/19 足場依存性

大腸の高分化型腺癌の組織標本をみていて、ふと思ったことがある。 これらの癌細胞は、周囲間質の繊維化を伴いながら増殖するのが普通である。 その一方で、浸潤能獲得の一環として、マトリックスメタロプロテアーゼやコラゲナーゼなどを発現している。 それなのに、なぜ、この癌細胞は、繊維化を伴っているのか。 腫瘍が惹起した炎症に伴って繊維化が生じるのは理解できるとしても、それを分解して腫瘍細胞が間質を置換するように増殖しても良いではないか。 なぜ、それが起こらないのか。

もしかすると、これらの癌細胞は強い足場依存性を有するがゆえに、周囲間質の繊維化を伴って増殖するのではないだろうか。と、考えたとき、私は、しまった、と思った。 細胞生物学を修めた者であれば、癌細胞の特徴の一つに「足場依存性の喪失」がある、という話を知っているであろう。 私の場合、6 年ほど前、医学部編入受験生時代に某予備校で、そうした知識を得た。 それを「そういうものか」と、何となく受け入れ、無批判に今日まで過ごしてきたことは、私の怠慢、浅慮であるとの批判を免れ得ない。

生物学に詳しくない読者もいるかもしれないから、足場依存性 anchorage dependence について説明しておこう。 一部に例外はあるものの、ヒトの細胞の多くは、何かに接着していないと増殖することができない。 たとえば液体に細胞を浮かべておいた状態では、たとえ栄養が充分で、細胞増殖因子などの刺激が加わっていても、増えないのである。 しかし、これらの細胞がガラスビーズだとか、あるいは試験管壁だとかに接着すると、たちまち増殖を開始する。 このように「足場」が存在しないと増殖しない、という細胞の性質を「足場依存性」と呼ぶ。 ところが、こうした「普通の細胞」が癌化、つまり形質転換 transform すると、なぜか足場がなくても増殖できるようになる、とされる。 これを「足場依存性の喪失」などと呼ぶ。

そもそも「癌細胞は足場依存性を喪失している」という説は、どこから出てきたのか。 私が調べた限りでは、I. Macpherson らの報告 (Virology 23, 291-294 (1964).) が初出のようである。 これは、実験室において細胞にポリオーマウイルスを感染させた際、形質転換した細胞と、そうでない細胞とを、足場依存性の有無で分別できる、とする報告である。 癌細胞の一般的性質を議論しているわけではない点に注意を要する。

1968 年には、M. Stoker らが、足場依存性の細胞生物学的基礎として、細胞周期の G1 チェックポイントの存在を示唆する報告を行った (Int. J. Cancer 3, 683-693 (1968).)。 このあたりの問題については、M. Thullberg らが簡潔にまとめている (Cell Cycle 7, 984-988 (2008).)。

以上のことから、細胞が形質転換するに際して G1 チェックポイント機構が破綻している場合には足場依存性が失われる、と考えられる。 一方、形質転換するためには G1 チェックポイントの破綻は必須ではないし、チェックポイントが破綻すれば直ちに癌化する、というわけでもない。 従って、足場依存性を有する癌細胞は当然に存在するし、また、足場依存性を失ったが癌化には至っていない細胞も存在するはずである。

結論として、「間質の繊維化を伴って増殖する高分化型腺癌は、強い足場依存性を有する」という仮説は、正しそうだといえる。


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