これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/02/16 エリート意識

京都大学工学部にいた頃、同級生の某君から「君は、エリート意識を持っているのか」と問われたことがある。 これに対し私は「もちろん、持っている」と即答した。

日本の一般社会では「エリート意識」という言葉は、「俺は医者だ。賢くて、偉くて、金持ちなのだ。」というような、傲慢な精神の意味で使われることが多いようにも思われる。 もちろん私は、そういう意味で「エリート意識」という言葉を使ったわけではない。

私は共産主義者である。共産主義とは、端的にいえば「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ことを是とする思想をいう。 時に誤解されるが、個人の自由の尊重とは何ら矛盾しない思想である。 この共産主義的思想のうち「能力に応じて働き」という部分は、フランス語でいうところの `nobles oblige' と概ね同義と考えて良い。 Nobles oblige という語は、元来は「貴族には相応の社会的責任・義務がある」という意味合いである。 この「貴族」の部分を「能力のある者」と置き換えて解釈していただければ、それが共産主義思想の半分を表しているといえよう。

要するに、我々共産主義者の信ずるところによれば、能力がある者には、それを活用し、社会あるいは人類に貢献する道義的責任がある。 自身の能力を過小に評価し、いたずらに謙遜することは、むしろ無責任な態度として批判されるべきである。

従って、エリート意識とは、自身の能力が他より優れていることを認め、それに伴う責任を自覚することをいう。 京都大学の学生であるならば、そうしたエリート意識は持っていなければならないし、だから私は、冒頭の某君の問いに対して即座に肯定したのである。

なお、誤解を招くといけないので補足しておくが、共産主義の重要な点は「必要に応じて取る」という部分である。 能力の高い者、社会に貢献した者が、より多くの報酬を与えられるわけではない。 これが、現代日本の、いわゆるエリート層には受け入れられない点であろう。 歴史的に共産主義が、裕福でない労働者を主たる支持層としてきたのは、こうした理由からである。

冒頭の話に戻るが、私は「エリート意識」という言葉を、某君とは異なる意味で使ったために、いささか誤解されたかもしれない。 こうした言葉の使い方の流儀の相違による誤解は、医学・医療の世界でも時に経験する。

たとえば「一般」という言葉である。 日常会話用語で「一般」といえば「多少の例外は認めつつも、多くの場合に適用可能である」というような意味であろう。 しかし物理や数学の言葉で「一般」といえば「全ての場合に対し、例外なく適用可能である」という意味である。 そこで、私のような工科の人間が「多少の例外はあるだろう」という意味で「一般には正しくない」と表現すると、 医科の人々には「ほとんどの場合に正しくない」というような意味に解釈されてしまうことあある。 文化の相違から来る誤解である。

もう一つ、先日、ヤヤコシイな、と思ったのが「そのようなことが、あってはならない」という表現である。 私は、この言葉を「現状として、そういうことはあるかもしれないが、望ましくない。研究を進め、なくさなければならない。」というような意味で使う。 理想を掲げ、その実現を目指すことを生業とする科学者としては、自然な表現であると思う。 しかし、この表現は、臨床医家の耳には「それは不適切な医療だ。ミスをしたのではないか。」と非難されているように聞こえることがあるらしい。

なかなか、難しいことである。

2017.02.23 語句修正

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