これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
名古屋大学時代の同級生であれば、「糸を切れ」という言葉で、「あぁ、あの話だな、フフフ」と笑うかもしれない。 私が医学科 5 年生の春の思い出話である。 臨床実習では、全ての診療科と、検査部などの非臨床部門とで実習を受ける。 その、最初の診療科での実習の時のことであった。
ある腹腔内の疾患に対し外科手術を受けた患者の病室でのことである。 術後に多少の腹水、つまり腹腔内に水が貯留するのは自然なことであるので、この腹水を排出するために、ドレーンと呼ばれる管を留置しておくのは普通のことである。 つまり、腹壁に穴を開けて、管で腹腔内と体外とをつなぐのである。なんと野蛮な、と思わないでもないが、まぁ、やった方が良いと考えられている。 そして術後何日か経って、ドレーンから出てくる腹水が減ってきたら、これを抜去する。 むやみにドレーンを留置しておくと、その腹壁の穴から細菌が腹腔内に侵入し、腹膜炎などを来す恐れがあるから、不要になった管は早く抜くのが良い。
さて、その病室に入った時、指導医は腹水がほとんど出ていないことを確認し「よし、ドレーンを抜こう」と言った。 そして、学生の中で先頭に立っていた私を指し、「君、やりたまえ」などと言った。 もちろん私は、ドレーンの抜去など、やったことがない。 やるとも思っていなかったから、予習もしていない。 一体、どうやって抜けば良いのか、とんとわからぬ。 しかし患者に不安を与えてはならぬ、と思い、なにくわぬ顔で「はい」と言った。
指導医は、「まずハサミで糸を切りたまえ」と言った。 つまり、ドレーンと皮膚とが糸で縫い合わされているので、それを切断して糸を外し、然る後にドレーンを引き抜くのである。 しかし私は、糸のどの部分を切れば良いのか、わからなかった。 糸を切るというのは、それなりに高度な技なのである。 もしヘンテコな場所で切ってしまうと、糸の一部が患者の皮膚の中に残ってしまい、審美的な問題を生じるだけでなく、感染や炎症を起こすこともある。 だから適切な場所で糸を切らねばならないのだが、そもそも私は、ドレーンと皮膚がどのように縫い合わされているのか知らなかったから、 どこを切れば正しくドレーンと皮膚を分離できるのか、わからなかったのである。
そこで私は、「先生、どこを切れば良いのでしょうか」と助けを求めたのだが、指導医は「糸を切れ」としか言わない。 やむなく私は、どう考えても安全な場所で糸を切ってみたのだが、どう考えても安全な場所というのは、つまり、どう考えても重要でない場所なのだから、 やはりドレーンと皮膚は分離できない。 やむなく私は「先生、どこでしょうか」と繰り返したが、指導医には伝わらない。 「糸を切れ!」「切ったことないんか!」と、声を荒げられたが、もちろん、私はドレーンを固定している糸など切ったことがない。 そこで「はい、初めてです」と言ってしまえば良かったのだが、いささか動揺していた私は、患者の前でそういうことを言って良いのかどうか判断できず、困った。 今から思えば、私が初めてであることなど患者にはバレていただろうから、遠慮せずに言うべきであった。 たいへん不安な思いをさせてしまい、申し訳ない。
最終的には、エイヤッと糸を切って、無事に、私はドレーンを抜くことができた。 要するに、ドレーン抜去時の抜糸は、皮膚を縫合した糸の抜糸と全く同じ要領で良いのである。 それを一言、言ってくれれば何も問題なかったのに「糸を切れ」だけでは、わからぬ。
あのような指導医にならぬよう、気をつけるとしよう。