これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
昨日の記事の続きである。実を言うと、この内容について過去に書いたことがあるような気もするのだが、検索した限りでは、発見できなかった。 たぶん、書こうと思っただけで、実際には書かなかったのだと思う。
医学科の学生などの中には「当面は臨床をやって、年をとって臨床に飽きたら研究をやりたい」というようなことを言う者がいる。 理科や工科の人々、あるいは純粋基礎医学の人々にとっては、ハラワタが煮えくりかえるような発言であろう。 そして、医科学生や若い医師の中には、この発言のどこが問題なのか、理解できない者が少なくないと思われる。
逆の立場で考えれば良い。 医学科を卒業し、医師免許を取得した後、臨床には直接携わらず、専ら基礎研究や公衆衛生などの仕事に従事する医師もいる。 そういう人々が、齢 60 を過ぎた頃に「定年になったら、その後は臨床をやろうと思う」などと言ったら、諸君は、どう感じるか。 そもそも臨床経験がなく、40 年も現場から離れた老人が「明日から臨床医になる」と言ってできるほど、臨床医療というのは、簡単なものなのか。 「臨床を馬鹿にするな」と、諸君は立腹するのではないか。
全く同じことである。 「臨床に飽きたら研究をやる」などというのは、学問を愚弄し、研究に専念する人々を侮辱する発言に他ならない。 学術研究というものは、学問を積み重ねてこなかった臨床医が気軽に手を出せるほど、生易しいものではない。
なぜ、そのような、とんでもない勘違いをする学生や医師が出現するのか。 これは、現在の医学科教育のあり方に、重要な問題があるように思われる。
多くの大学では、いわゆる研究マインドを持たせる目的で、医学科生を一定期間、基礎医学の研究室などに配属し、研究に従事させている。 これ自体は、たいへん、よろしい試みである。 しかし、その研究室で、一体、どういう指導が行われているのか。 私が名古屋大学時代に見聞した限りでは、実験技術を教え、実験を体験させる、という内容が主流であったように思われる。 つまり、研究において最も重要な部分、すなわち、問題をみつけ、現状を把握し、研究の計画を立てる、という部分には、学生は、ほとんど触れていないのではないか。 結果、「実験すること」を「研究」であると勘違いする者が現れる。 しかも、学生にモチベーションを与えるため、などとして、その実験結果を学会などで発表させることも多い。 学会発表の敷居が、非常に低いのである。 これでは、学生が研究というものを軽くみてしまったとしても、やむをえない面はある。 実験するだけなら、大して頭脳は使わず、楽であるから、臨床に飽きた頃に手を出そう、という発想は合理的なのである。
いうまでもなく、本当に物事を考えている学生は、そのような勘違いは、しない。 しかし、頭のカラッポな学生が手厚く保護され、本当に考えている学生が冷や飯を食うような「教育」が、現在の日本では広く行われているのではないかと、私は懸念している。 もちろん、私の手の届く範囲については、そうした流れに対し最大限の抵抗をする所存である。