これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/03/22 多能性幹細胞を用いた再生医療 (2)

3 月 16 日号の The New England Journal of Medicine に、滲出性加齢黄斑変性に対する iPS 細胞由来の網膜色素上皮細胞シート移植療法についての症例報告が掲載された (N. Negl. J. Med. 376, 1038-1046 (2017).)。 加齢黄斑変性 (Age-Related Macular Degeneration; ARMD) とは、加齢に伴って、網膜黄斑部の網膜色素上皮細胞が変性し、それに伴って視力の低下を来す疾患である。 高齢者の失明の原因として、比較的、頻度が高い。

眼科学に詳しくない人のために、いささかの補足説明が必要であろう。 黄斑部というのは、網膜の、いわば中心部分であって、視野でいうと真ん中に対応する。 通常、測定される視力は、この黄斑部の性能で決まると考えて良い。 網膜には、教科書的には、10 層の構造があるとされている。 そのうち最外層にあたるのが網膜色素上皮細胞層である。 これは、内部にメラニン色素を蓄えた、一層に並ぶ細胞によって構成されている。 医学書院『標準組織学』第 5 版によれば、この網膜色素上皮細胞は、いくつかの機序により視細胞の働きを助けているようである。 なお、視細胞というのは、光に反応して神経シグナルを発する細胞である。

話は逸れるが、この『標準組織学』は、学生向けの医師国家試験対策書である「標準」シリーズの一部として刊行されているものの、内容はキチンとした教科書である。 原著者は、解剖学の分野で教育者として有名な藤田尚男と藤田恒夫である。 他の「標準」シリーズが冠している `Standard Textbook' という表記も付されておらず、英題は `Fujita, Fujita's Textbook of HIstology' となっている。 また、他の「標準」シリーズにみられる「試験に出やすいポイント」のような低俗な付録も掲載されていない。 医師が読んでも恥ずかしくない教科書といえる。

さて、Yanoff et al., Ocular Pathology, 7e (2015). によれば、 加齢黄斑変性は大きく 2 つに分類され、網膜に血管新生を伴うものを滲出性加齢黄斑変性と呼ぶ。 これは、原因はよくわからないのであるが、まず網膜の外側にある脈絡膜で変性が生じ、やがて網膜色素上皮細胞層の外側に血管新生を来す。 この血管からは、しばしば出血を来し、最終的には瘢痕化し、視力障害を来すらしい。 なお、この過程において、視細胞や網膜色素上皮細胞に著明な傷害は生じない。

以上のことから、新生血管や瘢痕組織を外科的に切除すれば失明を防ぐことができ、さらに視力の回復も期待できるのではないか、と考えるのは自然なことである。 実際、過去には、そういう治療が試みられた時期もあるのだが、現実には視力の回復はあまりみられなかった。 これについて、上述の報告では「手術の際に網膜色素上皮細胞や視細胞が傷つけられるためである」と説明しているが、 特に引用文献は付されておらず、そのように考える理由は、よくわからない。

とにかく、網膜色素上皮細胞の損傷が視力低下の原因である、という仮定に基づき、新生血管や瘢痕組織を手術で取り除いた上で、 iPS 細胞を用いて作成した網膜色素上皮細胞を移植する、という治療を、一人の患者に対して行ったのである。 ところが、結果として、視力の回復はみられなかった。その理由についての考察は、述べられていない。

そもそも、なぜ、加齢黄斑変性で視力障害、厳密にいえば空間分解能の低下が生じるのか。病態を正しく理解することなしに、適切な治療法を編み出すことは、できない。

網膜色素上皮の傷害が問題なのだ、という仮定が、既に間違っているのではないか。 外科的治療を行っても視力が回復しない原因は、血管新生や瘢痕化の過程で、網膜のシナプス網に非可逆的な変化が生じたためであると考えた方が自然であるように思われる。 iPS 細胞を用いた網膜色素上皮細胞の移植は、センセーショナルではあるが、理論的根拠は乏しい。


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