これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
学生時代に、良い教科書はないかと図書館や書店を物色しつつも、結局、コレという書物に出会えなかったのが、婦人科学と輸液学である。 名古屋大学時代には、やむなく、婦人科学については医学書院『標準産科婦人科学』第 8 版を手元に置き、輸液学については教科書を持っていなかった。 なお、産科学については、図書館に所蔵されていた南山堂『ウィリアムス産科学』原著 24 版を使用していた。
北陸医大 (仮) に来て、産婦人科での研修を受けるに際し、産科学は、上述の「ウィリアムス」の原書である Cunningham FG et al., Williams Obstetrics, 24th Ed., (2014). を購入した。 本当は日本語の方が使い勝手が良いのだが、原書の方が安いことと、産科学の教科書を開く機会はそれほど多くないであろうことから、原書を選んだ。 また、この Williams 産科学の姉妹書とでもいうべき婦人科の教科書、Hoffman BL et al., Williams Gynecology, 3rd Ed. (2016). が出版されたばかりであるらしかったので、婦人科の教科書としては、これを購入した。
問題は、輸液学である。輸液のコツ、だとか、研修医のための輸液マニュアル、というような類の薄い本はあるのだが、 キチンと医学的に輸液を論じた教科書というものが、みあたらないのである。 かろうじて、集中治療学の教科書である Webb A et al., Oxford Textbook of Critical Care, 2nd Ed., (2016). などに、 輸液についての概説が掲載されている程度である。
なぜ、輸液についてのキチンとした教科書がないのか、と不思議に思っていたのだが、ある時、「実は『輸液学』などという学問は存在しない」という事実に気がついた。 我々は、基本的な生理学 physiology や腎臓学 nephrology から理論的に輸液について考えているだけであって、 細かな臨床的事項を踏まえた「臨床輸液学」とでもいうべき学問分野は、未だ確立されていないのである。 たとえば、いわゆる細胞外液類似液を投与する際に、生理食塩液が良いのか、乳酸リンゲル液が良いのか、炭酸リンゲル液なのか、それとも酢酸リンゲル液なのか、 という問題について、医学的に合理的な説明を与えることに成功した人は、存在しない。
体液平衡については、研修医向けのアンチョコ本レベルでは、いまだに浸透圧のスターリングの法則を前提としたモデルが示されているのが現状である。 しかし、この法則が誤りであることは明白である。 典型的なのが、外科手術などの後にみられる体液貯留であって、これは、スターリングの法則では説明できない現象である。 そこで苦し紛れに「細胞内液でも細胞外液でもない、第三のコンパートメント、すなわち『サードスペース』に水が貯留しているのだ」などと説明されることがある。 しかし冷静に考えれば、体内の水は「細胞内にある」か「細胞外にある」かのいずれかに決まっているので、「サードスペース」などというものが存在するはずはない。
私は名古屋大学五年生の時、某外科での実習の最後に、教授に対して次のような質問を投げかけた。 「手術の後に、体液が貯留するのは、なぜなのでしょうか。」 もちろん私は、これが現代外科学における極めて重要な未解決問題であることを知っており、教授は明確に回答できないだろう、と予想していた。 イヤラシイ学生である、と、言えなくもないが、教授が真の医学者であるならば、こういう学生の質問を喜んだはずである。 実際、教授は私の質問の意図を正しく認識したのであろう、言葉を詰まらせた。 すると、居合わせた中堅の医師が「この学生は、何もわかってないな」というような顔をして「サードスペースに水が貯まるからである。」と言った。 すかさず私は「確かに、教科書にはそのように記載されていますが、そのサードスペースというものの実体は、何なのでしょうか。」と、刺しに行った。 これに対し、教授は巧くかわしたのだが、具体的にどう逃れたのかは、遺憾ながら記憶していない。
この「サードスペース」を巡る議論は、近年、その筋では盛んに研究されている。 せっかくなので、この問題については、次回、書くことにしよう。