これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
麻酔科学の話をしよう。 この日記では、3 年前の記事を除いては麻酔科学についてほとんど言及してこなかったが、これは私が麻酔に無関心だからではない。 単に、麻酔科学が非常に難解で、私の手が届かなかったからに過ぎない。 もちろん、今でも私は麻酔科学を理解したとはとても言えない素人なのだが、過日、プロポフォールについて勉強した際に面白い議論をみつけたので、紹介しておこう。
手術を見学したことのある医学科生であれば、プロポフォールの外観を、よく知っているであろう。 白濁した液体で、たぶん、シリンジポンプにセットされていたのではないかと思う。 学生は好奇心旺盛であるから、なぜプロポフォールは白濁しているのか、と疑問に思ったであろう。 ちょっとばかりデキる学生であれば、南山堂『TEXT 麻酔・蘇生学』改訂 4 版などをひもといて、プロポフォールについて調べたかもしれぬ。 この書物には、次のように記されている。
プロポフォールの原末は, 脂溶性が高く血液と混じらないため, 大豆オイルと卵リン脂質を原料とする水溶性の基剤で表面を覆い (ミセル化), 油性乳化剤 (エマルジョン) として静注できるように調剤されている.
つまり、乳化されているから、白いのである。 ここで勘の良い人は、もし、脂質に富むプロポフォール製剤内に細菌が混入すると、恐ろしいことになるのではないか、と考えるであろう。 この点について、薬理学の名著である D. E. Golan et al. `Principles of Pharmacology; The Pathophysiologic Basis of Drug Therapy, 4th Ed.' には
The intralipid preparation of propofol can rarely be a source of infection
とのみ簡潔に記されていて、理由には言及がない。 そこで麻酔科学の聖典ともいうべき R. D. Miller et al., `Miller's Anesthesia, 8th Ed.' をみると、 プロポフォール製剤には通常、EDTA が添加されているため、細菌が生存できないのだという。
ところで、Miller によれば、『TEXT 麻酔・蘇生学』にある「プロポフォールの原末は血液に混じらない」という記述は、事実に反するらしい。 プロポフォールは当初、1977 年にミセル化されていない状態で臨床的に使用され始めたのだが、アナフィラキシーを来す頻度が高いために、一時は使われなくなったという。 その後、ミセル化すればアナフィラキシーを回避できることが発見され、1986 年に再び、臨床の舞台に登場したらしい。 混じるか混じらないかということだけでいえば、原末も、血液に混じるのである。
ついでにいえば、『TEXT 麻酔・蘇生学』には「(プロポフォールの)大部分は肝臓で速やかにグルクロン酸抱合や硫酸抱合を受け(て代謝される)」と書かれているが、 Miller によれば、この記述も怪しい。 肝臓の血流は、J. E. Hall `Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology, 13th Ed.' によれば 1350 mL/min 程度である。 これに対しプロポフォールのクリアランスは 1500 mL/min 程度であり、肝血流より多いのである。 仮に肝臓に流れ込んだプロポフォールが全て余さず代謝されるとしても、足りない、ということになる。 実際、Miller によれば、プロポフォールの少なからぬ部分は、腎臓や肺で代謝されると推定されている。
さて、プロポフォールは、第一には麻酔薬として使われるのだが、脳虚血に際して、いわゆる脳保護薬として使われることもある。 つまり、中枢神経系の活動を抑えることで酸素需要を低下させ、細胞傷害を軽減する、というのである。 ただし、これについては異論もある。岐阜薬科大学の Y. Kotani らの報告 (J. Cerebral Blood Flow and Metabolism, 28, 354-366 (2008).) では、いわゆる脳保護作用はプロポフォールよりも、むしろ添加物である EDTA に依るのではないか、と示唆されている。 この報告を Miller は、あまり大きくは取り上げていないのだが、無視はせず「議論がある」とだけ言及している。
このように、我々は、とても身近にあるプロポフォールのことすら、全然、知らないのである。