これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/06/19 病理医の孤独

孤独ということでいえば、病理医も、臨床的には難しい立場にある。

そもそも、なぜ、病理診断が必要なのか。 現在は臨床検査技術の発展により、病理組織学的検索を行わなくても、だいたい 8 割か 9 割ぐらいは、正しい診断を得ることができる、と言われている。 が、高々 9 割なのであって、臨床所見だけでは、どうしても 1 割は誤診するのである。 この 1 割の重みが、多くの学生や研修医といった若手には、なかなか、伝わらないらしい。

「9 割方、正しい」という程度の診断で、手術を行うことができるのか。 心ある臨床医ならば、残りの 1 割を恐れ、取り返しのつかない損害を患者に与えることを恐れ、それ故に確かな診断を求めて、病理診断を要求するのである。

換言すれば、「その 1 割の誤診について、責任を取れるのか」という問題である。 医学を修めていない医師は「誤診は避けられない。だから、その 1 割は私の責任ではない。」などと弁明を試みるようである。 これが、上気道炎を肺炎と誤診して過剰な投薬を行った、という程度の話なら、あるいは許されるかもしれぬ。 しかし、たとえば良性腫瘍を悪性と誤診したために、本来は不必要な膵頭十二指腸切除を受けた、というような話になると、これは許されるものではない。 そうした事態を防ぐために、病理医が存在するのである。 病理診断によって「これは、間違いなく良性である」と断言することは不可能ではないものの容易ではないが、「これは、間違いなく悪性である」という診断は可能である。 「9 割方、悪性である」を「100 %、悪性である」に押し上げる 1 割は、大きい。

問題は、生検に基づく病理診断で「悪性とはいえない」と判断された場合である。 学生や若い医師の中には、臨床所見では悪性だし、生検で検体を採取した部位が不適切であったのだろうから、という考えに基づいて、 病理診断結果を無視して悪性とみなした治療を敢行することを支持する者がいる。 一見、合理的な「臨床的判断」にみえるかもしれないが、診断学を修めた者であれば、そのような判断は、絶対に、しない。

もし臨床所見を根拠に病理診断結果を無視しても良いのであれば、はじめから、生検を行うべきではないのである。 生検をするためには、少しとはいえ患者の体を傷つけ、しかも診断結果が出るまで 1 週間程度、患者を待たせる必要がある。 そうまでして行った生検が、実際には治療方針を左右しないのであれば、そもそも生検を行うことが不適切だということになる。 従って、こういう場合、生検を再度行うか、あるいは、治療を先延ばしすることができないならば、術中迅速診断によって判定を行わねばならない。 いずれも行うことができないのであれば、はじめから、生検してはならないのである。

こうした診断学の基本を理解していない医師ほど、「病理医は患者をみないから」などと言って、病理診断を軽んじるのである。 言うまでもなく、そうした誤った考えを正し、患者の利益を守ることこそが、病理医の使命である。 しかし残念ながら、現在の日本の医療現場では、病理診断の存在意義についてよく理解している医師が少ないために、 病理医は周囲からの理解を得られず、孤独な戦いを強いられている。 また、周囲と争うことを避けるあまりに、本来の使命を放棄してしまった病理医も、遺憾ながら、稀ではないようである。


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