これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/06/18 教授の孤独

私のような若輩者が教授の苦悩を推し量るなどというのは、礼法の観点からいえば、不遜にあたる。 が、共に医学の未来を憂い、医療の理想を巡り苦悩する同志であることを思えば、僭越とまではいえまい。

何の話かというと、教授という立場の孤独についてである。 名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、教授になるような人物は、まず例外なく、医学をキチンと修めてきた人々である。 これに対して学生、研修医、あるいは若手医師の多くは、思考停止して、ただ与えられた医療知識を暗記し、実施することが医療であると勘違いしている。 やり方を覚え、手技を身につけることこそが重要であると考え、「なぜ」などと問いを発することは、単なる余興、無用の長物であるとみなされる。 もちろん、大抵の教授は、それではいけない、キチンと医学を修めなければならない、と繰り返し説諭しているのだが、その言葉は、若者には届かない。 学問とは、問うことから始まるのだ、という事実を認識していないのである。

もちろん、世の中には、医学を識る医師も存在する。 たとえば私の名古屋大学時代の同級生でいえば、私以外に少なくとも 4 人は医学を修めた者がいた。 北陸医大の研修医でも、私以外に少なくとも 2 人は医学に関心を持っている。 そのように、存在はするのだが、数が圧倒的に少ない。 多くの医師は、ただ与えられた医療知識を覚え、教えられた手技を実施することこそが医療なのであり、そこに医学は必要ないのだと考えているらしい。

要するに、視野が狭いのである。 与えられたこと、教えられたことの範疇から脱することができず、新しいものを作ろうという意欲がなく、自身が世界の最先端を歩くのだという野心がない。 たかが名古屋大学やら北陸医大やらの教授が発しただけの言葉を、まるで金科玉条のごとく重視して、それに批判を加えるだけの見識も胆力も持たない者も稀ではない。

医学界は、そのような慢性的人材難にあるのだから、当然、医学を修めた医師は各地に散って、それぞれが組織の長として、医学を識らない周囲の医師を牽引していくことになる。 そうした教授の孤独が、近頃、ようやく私にもみえるようになってきた。

私は、自分が理想的な研修医像を体現しているとまでは思わない。 だいたい、臨床手技についていえば全国の研修医で下から 5 % ぐらいには入るだろうから、臨床労働力としては、ほぼ戦力外である。 しかし、使い方によっては、教授陣にとって有益な研修医ではあるだろう。 できれば巧く使ってもらいたいものであるが、その意は、容易には指導医に通じない。

2016.06.20 誤って削除されていた一行を復元した。

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