これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
きっかけは、パクリタキセル・カルボプラチン併用抗癌化学療法 (TC 療法) を受けている患者に生じた大球性貧血であった。 私は、こうした化学療法による骨髄抑制の結果として大球性貧血が生じるという話を知らなかったのだが、Clin. Epiedmiology, 8, 61-71 (2016). の報告によれば、TC 療法では特に貧血を来す頻度が高く、しかも大球性の傾向を呈することが多いらしい。 そこで私は北陸医大 (仮) の研修医室で同期の某君をつかまえて、興奮しながら「TC 療法の副作用として大球性貧血を来すらしいよ」と話したのだが、それを聞いた別の研修医の某君は「抗癌剤による骨髄抑制で大球性貧血を来すことは、血液内科では常識ですよ」と教えてくれた。 これに対し私は「なに、それは一体、どういう機序なのだ。いや、そもそも、パクリタキセルはどの段階で細胞障害を来すのだろうか。」などと騒ぎ始めた。
パクリタキセルという薬物は、教科書的には、微小管の脱重合阻害薬であるとされている。 `Williams Hematology 9th Ed.' をはじめとして、大抵の教科書では、その抗癌剤としての作用機序を「細胞分裂の M 期において核分裂ができなくなる」というように説明をしている。 しかし、これは、おかしい。 パクリタキセルの副作用としての貧血の原因が、細胞分裂 M 期で停止することであるとは考えにくい。なぜならば、M 期で停止するのならば核分裂だけでなく転写も阻害されるはずであるから、巨赤芽球が生じることもなく、大球性貧血も来さないはずだからである。 そもそも、本当に細胞分裂が停止するなら、分化も止まり、赤血球自体が産生されなくなるはずでもある。 従って、少なくとも貧血については、細胞分裂の停止以外の機序によるはずなのである。
そこで上述の `Williams Hematology 9th Ed.' を調べてみると、「細胞分裂が止まるからアポトーシスする」という説明の根拠として引用されているのは New Eng. J. Med, 332, 1004-1014 (1995). であり、これはパクリタキセルについてのレビューである。 このレビューには、パクリタキセルが細胞を G2 期や M 期で停止させる、とは書かれているが、これが抗癌剤としての作用機序であるとまでは述べられていない。 Williams ほどの名著でさえ、こうしたいい加減な引用をしているということは、実際のところ、パクリタキセルの抗癌活性の由来について キチンと調べた人はいないのではないかと思われる。
パクリタキセルの作用機序について疑問を投げかける面白いレビューとしては Neuropharmacology, 76, 175-183 (2014). が挙げられる。 これは、パクリタキセルの副作用として高頻度に生じる末梢神経障害について、その機序を論じたものである。 このレビューでは、末梢神経障害の機序と抗癌活性の機序とは異なる可能性がある、と指摘し、その違いを詳らかにできれば、有害事象を回避しつつ高用量の抗癌化学療法を実現することが可能になるであろう、と予言されている。 どうやらパクリタキセルの細胞毒性の機序としては、通俗的な教科書に記載されている説以外に、bcl2 を介して、あるいは微小管機能障害を介して、ミトコンドリア機能障害を生じせしめてアポトーシスを誘導するのではないか、とする意見があるらしい。 また、Williams では、パクリタキセルは p53 非依存的な細胞死をもたらす、とされているが、Gynecologic Oncology, 138, 159-164 (2015). では、パクリタキセルの細胞毒性は p53 依存的であることが示唆されている。 このように、パクリタキセルの作用機序については、謎が多い。
私の想像では、パクリタキセルは臨床的な投与量においては、細胞の転写・翻訳は基本的に抑制しないままに、細胞周期の進行だけを遅延させるのではないかと思われる。 それであれば、ビタミン B12 や葉酸欠乏の場合と同様に、巨赤芽球性貧血が生じることを合理的に説明できる。 もちろん、これでは癌細胞にアポトーシスを誘導することはない。 しかし癌細胞の増殖を抑えることはできるから、宿主の免疫に依存する形で、癌細胞を死なせることができるのである。