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2016/06/11 和することと同すること

「和して同ぜず」という表現がある。これは、一般には『論語』子路篇にある「子曰君子和而不同小人同而不和」という記述に由来するものとされている。 書き下すと「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」となる。 ここで現代日本人にとってわかりにくいのは「同」と「和」の意味の違いである。 通俗的には、「『和』とは相手とよく調和することであり、『同』とは表面的に同調することである」というような説明がなされるが、これだけでは違いがよくわからない。

この和と同ということについては、宮城谷昌光が小説『晏子』の中で簡明に述べている。 宮城谷氏は古典、たぶん『晏子春秋』か何かに基づいてこれを書いたのであろうが、私は漢文学者ではないから、あまり詳しいことは知らない。 『晏子』の記述によれば、「和する」とは、羹の如きものであるという。羹とは、スープのことである。 スープは、もちろん、水を火にかけることで作られる。水と火とは相反するものであるが、それらが組み合わさることで、美味な羹となる。 これに対し「同ずる」とは、水に水を加えるようなものをいうのであって、確かによく混じり合うが、何ら美味なものを生み出さない。

さて、近頃の世相、特に医学部教育の場においては、和することの重要性が忘れられているように思われる。 ガイドラインや教科書に沿った、決められた手順を覚え、身につけることが、デキる学生、優秀な研修医の証であるかのように言われているのではないか。 また、「調和を尊ぶ」と称して、他人を批判せず、否定せず、同ずることが良いことであるとみなされる風潮があるのではないか。

批判するということは、自己の意見に同調するよう他人に要求することを意味するのではない。 火にかけられた水は、その影響によって温度が高まることはあっても、あくまで、水であり続ける。もし、水が火に転じてしまえば、それは和したのではなく、同じたのである。 私は、この日記で散々に悪口を書き、批判を述べているが、他人が私に同ずることを望んではいない。 もし皆が私のようになれば、医療は間違いなく崩壊するからである。

和するためには、自分で考える能力が必要であって、考えるためには基礎的学識が必要である。 それを身につけるために、いわゆる一般教養や基礎医学の講義があるのだが、残念ながら、多くの大学では、それらが正常に機能していないようである。 本来であれば、そのあたりのカリキュラムや大学入試のあり方を改善することが重要なのであるが、それは現在の私の立場で関与できることではない。

そこで、北陸医大 (仮) の学生や若手医師を対象に、議論をするための自主勉強会の開催を試みている。 また、これとは別件に、生化学、生理学、薬理学、病理学のキチンとした教科書をじっくり読む輪読会も、夏頃から開きたいと考えている。 これらの試みが根付くための土壌が、北陸医大にはあると信じている。


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