これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/05/22 学生との接し方

大学病院の場合、我々のような研修医であっても、臨床実習の学生に対しては指導する立場になることがある。 もちろん、研修医の方が学生より偉いというわけではないし、学識に富んでいるとも限らない。 場合によっては、優秀な学生に教えてもらう立場になるのも、お互いの利益になる。 実際、先月は極めて優秀な五年生が実習に来たものだから、「北陸医大 (仮) の医者のレベルは、この程度か」などと失望されることを恐れ、私も必死に勉強して対応した。 結局、なんとか一枚上手を行くことができたとは思うのだが、二学年と十歳の差があっても「一枚上手」という程度に過ぎないという事実は、彼がいかに優秀であるかを物語っている。

ところで、学生の意識の高さは、多様である。 「世界一の内科医を目指そう」と考えている者もいるだろうし、一方では「医師免許さえ取れれば、それで良い」というような、水準の低い学生も、残念ながら、いるだろう。 前者のような場合であれば何も難しいことはなく、こちらとしても全力であたれば済む。 悩ましいのは、意欲と学識の乏しい学生への対応である。これは、北陸医大の教授陣も共通して頭を痛めている問題である。

純粋に医学者としての誠意のみで対応するならば、相手の知性の程度に関係なく、対等の相手に語るようなつもりで指導するべきであろう。実際、それこそが大学の本来あるべき姿であり、我が母校たる京都大学が旧制第三高等学校時代から受け継いで来た伝統でもある。 もちろん、そうした指導は、まず間違いなく、彼らの頭脳には届かない。 しかし大学の本来の姿からいえば、それは彼らの側の問題なのであって、指導する側の罪ではなく、彼らの知性が水準に達していないならば、単に彼らが学位を授与されるに値しない、というだけのことに過ぎない。 もし私が理学部や工学部の学生を指導するのであるならば、そのように考え、相手の水準に合わせるようなことは、一切、しないであろう。神聖なる学問を、汚すわけにはいかないからである。

しかし我々医学部は、医師養成学校としての任務をも兼ねている。 本来、このこと自体に無理がある。医師の中でも、たとえば、新しい医学や医療を切り拓く責を担う医学者と、いわゆる家庭医のような立場で地域の医療を担う医師とでは、求められるものが違う。 それを一律に大学医学部で教育しようという発想に無理があるのだ。 かつては「医師たる者は、すべからく、医学者たるべし」という高い理念の下に医学教育を大学に一本化したようであるが、その理想は、あまりに現実から乖離している。 医学ではなく医療技能を重点的に訓練する医科専門学校を、復活させるべきである。

需要がないからといって、大学が、学生に学問を伝えることを放棄してしまって良いのか。 それは、学問と学生を侮辱することに、ならないか。 そうして現実に迎合するうちに、学問の理想を掲げる者がいなくなり、ただ医師免許に守られてぬるま湯に浸かる者ばかりになってしまったことが、現在の医学界・医療界の最大の問題ではないのか。 ここで私までが現実を受け入れてしまったら、一体、誰が理想を掲げ続ける役割を担うのか。

現時点では、私は、名古屋大学時代と同様の路線で行こうと考えている。 今は彼らの心には届かず、理解されず、疎まれようとも、五年後、十年後の彼らに、少しばかりの変化をもたらすことに期待している。


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