これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
動脈血ガス分析、と呼ばれる臨床検査がある。 これは、動脈から採取した血液について、pH や、酸素分圧、二酸化炭素分圧などを測定するものである。 少なからぬ臨床医は、これを「ケツガス」などと短縮して呼ぶようである。 中には、こういう略称を使うことをカッコイイと感じる者もいるらしいが、私の感覚でいえば、むしろ俗称を連呼している者は頭が悪そうにみえる。 私は基本的に正式名称を使うか、せめて「血液ガス」「ガス分析」などと呼ぶことにしている。
さて、検査手技についてだけいえば、これは、動脈から採取した血液を測定器にセットしてボタンを押すと、結果を印字した紙が出てくる、というだけのものである。 結果の「解釈の仕方」にも決まった作法のようなものがあるので、まぁ、頭を使わなくても、理解したフリをすることはできる。 実際、少なからぬ医師は、この機械がどういう方法で測定を行っているのかは全く知らないままに、決められた手順の操作だけを実施しているものと思われる。
工学部の常識からいえば、これは、トンデモナイことである。 何かを測定しようと思うならば、その装置がいかなる原理で動いているのか予め熟知しておくことは必須である。 そうでなければ、測定結果にどういう誤差が含まれているのか理解できず、正しく解釈することができないからである。 それにもかかわらず、医者は、頭をカラッポにして操作方法だけを習得して、まるで自分が動脈血ガス分析を実施できているかのように錯覚しているのである。
動脈血ガス分析の原理については、金原出版『臨床検査法提要』第 34 版を参照されると良い。 特に注意を要するのは、酸素分圧や二酸化炭素分圧についてであろう。 これは、検査項目上は「分圧」と表記されている上に、大抵の測定器では「計算」ではなく「実測」として扱われているので、本当に分圧を測定していると誤解する者も稀ではあるまい。 しかし「提要」によれば、どうやら、これは実際には分圧ではなく、酸素や二酸化炭素の量を測定しているらしい。 量を測定して、それを分圧に換算して表示しているのである。
中学校か高等学校で学んだ化学の知識によれば、量を分圧に換算するには、溶解度が必要である。ところが溶解度は、温度に依存する。温度とは、この場合、患者の体温である。 大抵の測定器は、デフォルトでは患者の体温が 37 ℃であると仮定して換算するようだが、実際には、本当の患者体温を用いて換算しなければ、正しい分圧を知ることはできない。 この患者体温を用いて換算することを、臨床検査医学用語では「体温補正」などと呼んでいる。
ところで、ある医師がブログで「体温補正は不要」と書いていた。 その根拠として挙げられていた論文は、B. A. Shapiro, Respir. Care. Clin. N. Am., 1, 69-76 (1995). である。 この論文は、あまりにくだらないので私は abstracat しか読んでいないが、著者は
There is no logical or scientific basis for the assumption that temperature-corrected values are better than the values obtained at 37 degrees C.
体温補正した値の方が 37 ℃で得られた値よりも優れているとする論理的、あるいは科学的な根拠は存在しない。
と書いている。 たぶん、この著者は物理学や化学の素養に乏しいのであろう。 上で述べたように、いわゆる体温補正は、本当は「補正」ではなく、量から分圧への「換算」に必須のプロセスなのであって、理論的に、省略不可能である。 もし体温補正を行わないのであれば、そもそも換算をせずに、酸素や二酸化炭素を分圧ではなく量で表示しているのと同じことである。 これが臨床的には不適切であることは、麻酔科学を修めた者であれば容易に理解できるであろう。 つまり、体温補正を行うべきであるとする論理的、科学的根拠は、明確に存在するのである。
何を勘違いしているのか、医師に物理や数学の素養は不要、などと豪語する者が稀ではないので、実に困る。