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「病理学」という語は、「病の理の学問」という意味であって、つまり疾病を理論的に説明する学問分野である。 この病理学から派生した「病理診断学」というのは、「病理学を基礎とする診断学」を意味する。 一般の内科医らが行うような、身体診察や血液検査所見・画像検査所見などに基づく診断方法は、結局のところ、統計学的、あるいは確率論的な推論である。 これに対し病理診断は、理論的な演繹に拠るのであって、統計に依存しない点が根本的に異なるのである。
何を言いたいのかというと、組織学的診断は、病理診断のための手法の一つに過ぎない、ということである。 両者の違いが特に重要なのは、手術前に行われる生検である。 「もしかすると癌かもしれない」と疑われる病変がある場合などに、その一部に針などを刺して組織を採取し、それを顕微鏡で観察して診断する、という検査のことを生検と呼ぶ。 素人でもわかることだが、もし組織を採取する部位が不適切であると、病変の性質を正しく評価することができず、本当は癌であるのに「癌ではない、良性腫瘍である」などと誤った診断を行ってしまう恐れがある。 そこで「採取された標本からは良性腫瘍であると考えられるが、ひょっとすると採取部位が不適切であって、実際には悪性腫瘍であるかもしれない」などと逃げる者が、いる。
言語道断である。「良性腫瘍だと思うが、悪性かもしれない」などという診断に、一体、何の意味があるのか。 組織学的所見が全てではないことをふまえた上で、緻密な病理学的考察に基づいて、それが良性なのか悪性なのか断定することこそが、病理診断なのである。 もちろん、特別な事情により確定的診断が不可能なことはあり得るが、原則として、組織診の限界を理由にして病理医が逃げることは許されない。
詳細に言及することは支障があるので敢えて曖昧に書くが、私がみた症例で、ある腫瘤性病変について、それが腫瘍なのか非腫瘍なのかが問題になったことがある。 生検の結果、標本上には悪性を示す所見がなく、「腫瘍ではない」と病理診断された。 しかし私は納得がいかず「腫瘍の辺縁部だけが標本化されたために悪性所見がなかった」という可能性があるのではないか、と、病理の某教授に問うた。 並の医者であれば、この問いに対しては「そんなことを言い出したら、キリがないよ」などと逃げるであろう。 しかし、教授の説明は見事であった。 明確な論理的考察を述べ、「腫瘍の辺縁部だけが標本化されたということは考えられない。この病変は、腫瘍ではあり得ない。」と、結論したのである。 疑い深い私でさえ反論できないほどの、完全な論理であった。
これこそが、真の病理診断である。単なる経験の積み重ねで到達できる境地ではない。