これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2016/06/27 Area Under the Curve

薬理学の分野には、Area Under the concentration-time Curve, あるいは単に Area Under the Curve と呼ばれる概念がある。普通、AUC と略される。 これは、薬物を投与した後の血中濃度を縦軸、経過時間を横軸にとったグラフにおける、曲線の下の部分の面積、という意味である。 数学的にいえば、血中濃度の時間積分である。 薬物によっては、効果や副作用の出現頻度が AUC と強く相関することが知られている。 特に、腫瘍薬学や感染症学の分野では、AUC を強く意識して薬物の投与量を決定することが多い。 ただし、ふしぎなことに、臨床薬理学の名著である D. E. Golan et al., Principles of Pharmacology, 4th Ed. では、AUC の概念が紹介されていない。 一方、感染症学の聖典である J. E. Bennett et al., Mandell, Douglas, and Bennett's Principles and Practice of Infectious Diseases, 8th Ed. には キチンと記載されているので、「実は AUC というものを、よく知らない」という学生は、後でコッソリと読むと良い。

過日、日本婦人科腫瘍学会の「卵巣がん治療ガイドライン 2015 年版」の第 2 章を読んでいた際、 怒りが湧き起こった。 パクリタキセルとカルボプラチンを併用する TC 療法について、カルボプラチンの投与量として「AUC 5 〜 6」などと書かれていたのである。 単位は、どこに行ったのか。 さらに、無視できない有害事象が生じた場合の減量基準の表には、あたかも「AUC」という単位が存在するかのような記載がなされている。

最大限、好意的に考えれば「カルボプラチンの AUC は `min mg / mL' の単位で表現するのが常識である」という理由に基づき、 私的で一時的な文書において単位を省略するのは、著しく不適当であるものの、理解できないわけではない。 しかし、ガイドラインにおいて単位を省略するというのは、一体、どういう了見なのか。

AUC に基づいてカルボプラチンの投与量を調整するべきである、ということを唱えたのは、英国の A. H. Calvert (J. Clin. Oncol., 7, 1748-1756 (1989).) のようである。もちろん、Calvert は立派な人物であるし、J. Clin. Oncol. もキチンとした論文誌であるから、彼の報告には単位が完備されている。

薬理学を識っているなら、AUC の単位を省略するということが、どれだけ異常で、臨床的に危険なことが、容易に想像できるはずである。 こうしたガイドラインがまかり通っているのは、日本の多くの医師が薬理学を修めていないことの証左である。 と、思ったのだが、調べてみると、実は日本薬学会の和文論文誌にも AUC の単位を省略した不適切な論文が掲載されていた。 どうやら、この国では、医師だけでなく薬剤師も、薬理学を修めていないらしい。

Calvert は、周到な研究の成果として、それまで患者の体表面積に応じて慣習的に用いられていた 400 mg/m2 という投与量は不適切であり、 むしろ腎糸球体瀘過量に応じて投与量を決定すべきである、と主張した。 彼の意見は現在では広く認められているし、臨床的にも、そのようにされている。 しかし、いまだにカルボプラチンの添付文書には、通常は 1 回あたり 300-400 mg/m2、などと記載されている。 理由は知らぬ。

ところで、Calvert の報告は画期的であったが、問題がないわけではない。 彼の提案した式は

カルボプラチン投与量 = AUC x (糸球体瀘過量 + 25 mL/min)

というものである。これは、カルボプラチンの薬物動態を単一コンパートメントモデルで近似し、 腎外クリアランスが 25 mL/min で一定である、とするものである。 投与後 6-8 時間の間は単一コンパートメントモデルが良い近似を与える、ということは既に確認されているようなので、その点は妥当だといえよう。

問題は、「腎外クリアランス」の正体が未だに明らかにされていないことである。 もし、これが主に胆汁中への排泄であるならば、肝機能障害のある患者では 25 mL/min よりも小さな値を使わなければならない。 また、もし肺代謝の寄与が大きいのならば、間質性肺炎の患者では少し補正が必要になるだろう。 人種差や個人差が大きいかもしれない、という懸念もある。 現状として一律に Calvert の式を用いること自体はやむを得ないとしても、こうした危うさを含んだ近似であることを、我々は忘れてはならぬ。


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