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2017/06/19 専門家としての誇り

私は、病理医である。正確に言えば、病理医の卵である。 「病理診断は臨床医療の一分野だ」と主張する人もいるが、患者の主治医にならないという意味において、臨床家ではないとみるべきであろう。 何を言いたいかというと、私は臨床の専門家ではない、患者自身を診ることの専門家ではない、ということである。 逆に、我々は診断の専門家であり、医学理論の専門家であるから、精神医学を除く全ての診療科目について、 理論面に限れば、その診療科の臨床医と互角以上の立場で議論できねばならない。

診療のあり方について、学生時代には同級生と、研修医になってからは同期の連中と、話すことがある。 すると、私の主張が現実離れしていると考えた人々は「君は臨床を知らないから」とか「ならば、君は、それをできるのか」などと私を攻撃することがある。 前者の「君は臨床を知らないから」については、問題外であるから、ここでは詳しく議論しない。 臨床医療の基盤たる医学を学生時代に修めず、卒業してから指導医のやり方をうわべだけ一、二年みて臨床を知った気になっているのだから、話にならない。

本日の議題は「ならば、君は、それをできるのか」という反論についてである。 たとえば同じ立場にある外科医同士が、術式の是非を論じる場において、そういう発言をするのなら、結構である。 しかし臨床家が、臨床の素人である私に対して、そういう方法で反撃するのは、いかがなものか。 あなた方には、誇りというものが、ないのか。

私なら、そのような醜い弁明は、しない。 ある時、膠原病内科医を志望する同期研修医の某君と、膠原病の治療について話したことがある。 私が「現状では、膠原病の治療といえば、グルココルチコイドと免疫抑制であり、何ら本質的な治療ではない。 もっと、膠原病の本質を捉えた、根本的な治療のあり方を考えなければならない。」と言うと、彼は 「それは、君達病理医の仕事である。早く膠原病の本態を解明してくれまえ。」と返した。 私はニヤリとして「確かに、その通りである。膠原病治療が未だにグルココルチコイドに頼りきりなのは、我々病理医の怠慢に過ぎない。よろしい。いずれ我々がやる。 あと 30 年、待て。」と答えた。

専門家というのは、そういうものではないのか。 自分達がフロンティアを開拓するのだ、と自負しているものではないのか。 一見、不可能にみえることであっても、そこに工夫を凝らし探究を重ね、実現するのがプロフェッショナルというものではないのか。

そういう誇り、精神の態様は、経験を積むことで自ら生じるものではない。 学生時代に卑屈であった者は、よほど深く悔い改めない限り、一生、そのままである。


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