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2017/06/14 「考え方」

臨床医学の分野には、名前から入る人が少なくないように思う。 何かを説明する時に「これは○○というものであり……」というような言い方をするのである。 これに対し、理学や工学の連中には「これは、△△が□□するものであって、○○と呼ばれる」というように、名称を後回しにする文化があるように思う。 教科書を開いてみても、臨床医学では、まず病名が書いてあって、次に疾患概念、疫学、病態、診断方法、などの順に述べられる。 一方で工学などでは、まず問題が提示され、それに対する解決方法が例示され、その後に初めて、その「解決方法」の名称が述べられることが多い。 この両者の違いは、些末なようであって、実は物事の考え方に対する重大な差異を反映している。

臨床医学のように名前から入る流儀は、暗に、誰か過去の人が提唱した疾患概念、その分類単位を受け入れることを強要している。 たとえば「紅斑性狼瘡とは……」という書き方は、「紅斑性狼瘡」というものが存在することが前提になっている。 「そもそも紅斑性狼瘡などという疾患単位は存在するのだろうか」という疑問を、暗黙のうちに封じているわけである。 これに対し「全身性に慢性炎症を生じる患者の中には、血中に抗二本鎖 DNA 抗体が生じている者がおり……これを便宜上『紅斑性狼瘡』として一つの疾患単位として扱う。」 などとするのが、工学的流儀である。 この場合、「紅斑性狼瘡」という分類はあくまで便宜上のものであって、その分類を否定する立場もあり得ることを認めているのであり、寛容であるし、合理的で受け入れやすい。

我々のように他学部で育った者を別にすれば、多くの医者は、上述の臨床医学的流儀に染め上げられている。 疾患の分類というものは、誰かエラい人が決めた、あるいは天の神様が作ったものとして、既に存在するのだ、という前提で思考が始まる。 重要なのは「患者の体の中で何が起こっているか」であって、「何という名前の病気なのか」ではない、という事実を、ついつい忘れてしまうのである。 だから患者に説明するときも「あなたの病気は○○というものです」という、何の意味も持たない言葉から入ってしまう医師が少なくない。 本当は、「あなたの体の中では、こういう現象が起こっています。そういう病気は○○と呼ばれるので、インターネットなどで調べてみると良いでしょう。」などというのが 適切な説明なのではないか。

これと関連するのが「考え方」という語である。 臨床医療のアンチョコ本をみると「○○の考え方」というようなタイトルの書籍が、少なくない。 もちろん、私の蔵書には、そのような低俗な書物は、ほとんど存在しない。 厳密にいえば大野博司『ICU/CCU の薬の考え方, 使い方 ver. 2』(中外医学社; 2016). というものはあるが、結局、この本は買っただけで読んでいないので、無視して良いだろう。

この手の書物では、「考え方」という語を「アルゴリズム」の意味で使っていることが多い。 これは、臨床医療の分野で広くみられる現象であって、予め決められた手順によって問題を処理することを「考える」と表現するのである。

物理学者や工学者は、「考える」という語を、全然違う意味で用いる。 彼らの言う「考える」とは、「なぜ」「どうして」と問いかけると共に、それに対して必死に答えを探すことをいう。 偉い先生が言うことや、教科書に書いてあることを、彼らは安易に受け入れない。 「なぜだ」と問いかけ、徹底的な批判を尽くし、それに耐えきった場合にのみ、それを受け入れるのである。 そういう能力を、彼らは大学の 4 年間で身につける。

遺憾なことに、おそらくは、ほとんどの大学の医学科で、考える能力を鍛える教育が行われていない。 ただし学生の中には、そうした教育体制に対し漠然と疑問を抱く者も、少数ながら存在する。 そういう人々が、次代を担うのである。


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