これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/05/28 緩和ケアと法医学

本日は、北陸医大 (仮) で開催された緩和ケア研修会の第 2 日であった。 講義とグループワークを主体とする研修会であったが、特に講義の方は、質疑応答や討議の時間が乏しく、講師と参加者の双方向性が損なわれていたように思われる点が遺憾である。 せめて講義の最後に 5 分ほどの質疑応答時間が確保されていれば、事情はだいぶ違ったであろう。 もちろん、その点は終了後のアンケートに記載しておいたので、今後、改善されることを期待する。 本当は研修会で質問したかったのだが、結局、タイミングがつかめずに懐に抱えたままになってしまった問題を、ここに書いておこう。

第一は、緩和ケアの定義である。 研修会では、WHO による定義の日本語訳が引用されていた。 英語での定義は

Palliative care is an approach that improves the quality of life of patients and their families facing the problem associated with life-threatening illness, through the prevention and relief of suffering by means of early identification and impeccable assessment and treatment of pain and other problems, physical, psychosocial and spiritual

これを私が訳すと、次のようになる。

緩和ケアとは、生命を脅かす疾病に直面している患者や家族の生活の質 (QOL) を向上させる取り組みであって、 その手段として、苦痛の予防や軽減に焦点をあてたものをいう。 ここでいう苦痛には、疼痛や、その他の身体的、心理社会的、および精神的なものを含むのであって、これらを早期に察知し網羅的に評価することが重要である。

英語を読める人は気づいているであろうが、私は英語を訳すとき、あまり一般的ではない方法を用いている。 この場合でいえば、原文に忠実に一文で訳そうとすると、日本語の性質上「緩和ケアとは ... 取り組みのことをいう」という構造にせざるを得ない。 しかし、これでは原文の `Palliative care is an approach that...' という明瞭な論理構造が失われてしまう。 そこで原文の雰囲気を保つことを優先し、文を分割する訳し方を、私は好んでいる。

閑話休題、WHO の定義では、緩和ケアの対象が「生命を脅かす疾病」の患者に限定されている。 もちろん常識的に考えれば、「生命の危険はないが、さまざまな苦痛により生活が脅かされている患者」も緩和ケアの対象に含めるべきであるから、 この WHO の定義は不適切であると言わざるを得ない。 次に WHO の定義が改訂される際には、この life-threatening という表現は削除されるであろう。

話は変わるが、この緩和ケア研修会の最後に、「癌患者に対し、本当に全例告知すべきだろうか」という疑問が会場から提出された。 もちろん、患者が告知を望まない旨を述べている場合は除外した上での話である。 これは、なかなか深淵な問題である。 昨今では全例告知が当然であるかのように思われているが、それを支持する理論的根拠は曖昧だからである。 研修会においても、この疑問に対しては「臨床的には原則として全例告知しているが……」というような発言しか出なかった。

私は、この問題は緩和ケアというより、むしろ法医学の問題と考えるべきであると思う。 法令で明確に規定されているわけではないが、医療行為の違法性を阻却するためには、意識障害や認知機能障害のある場合を除き、患者の同意が必要だと考えられている。 一方、正確な情報を与えられていない状況での形式的な同意は法的に無効であるから、告知なしには「患者の同意」を得ることが不可能である。 簡潔にいえば、インフォームド・コンセントのない医療行為は違法である、ということになる。 従って、告知せずに医療行為を実施することは、違法であるといえよう。

なお、緩和ケアと法医学、ということでいえば、世界的に長年、議論され続けているのが尊厳死の問題である。 この人道上、極めて重要な問題について、緩和ケア研修会において全く触れられなかったことは、甚だ遺憾であった。 私自身は、緩和ケアにおける最終手段として、いわゆる積極的尊厳死を認めるべきであると考えている。


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