これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/05/18 いわゆる体育会系の教育体制

名古屋大学にせよ北陸医大 (仮) にせよ、外科系診療科の多くでは「他の人がやっているのを、自分がやるようなつもりで、見学せよ」などと言われる。 何回か見学すると「さぁ、やってみろ」と言われることもある。で、まともにできないと「きちんと予習しなかったのか」などと言われる。

私は、少なくとも日本の臨床外科的基準からいえば、外科医としてのセンスが非常に乏しいのだと思う。 見学しても「みえない」し、予習をしても、いざ実際にやろうとすると、できない。 こういうことを言うと、臨床外科を好きな人達は「それは、見学の仕方、予習の仕方が悪いのだ」と言うが、私は、そうではないと思う。

これは、病理診断に例えると、わかりやすいだろう。 まず諸君は学生の頃、「自分で診断するようなつもりで」組織像を観察したはずである。 研修医となった現在でも、組織像をみるときには、少なからず、そういうつもりで眺めているはずである。 では一晩、病理診断マニュアルのようなものを予習して、翌日にたとえば胃生検の標本をみた時、キチンと所見を述べ、診断することができるか。

まぁ、十中八九、できないであろう。 私が外科手技をできないのは、それと同じことである。

私が学生時代に見学した某大学の病理学教授は「病理診断というものは、いくらトレーニングを積んでも、できない人には、できない。一定のセンスが必要である。」と言った。 私も、彼の意見に同意する。 確かに診断技術自体はトレーニングによって磨かれるものであるが、それ以前の重要なものを、我々は、病理診断学の道に踏み入れる前から、持っていたように思う。

なかなか言葉では表現し難いが、次のようなことである。 組織像をみて、そこで展開されている生命活動のドラマを想像する能力を、我々は、トレーニングで身につけてきたわけではない。 まだ組織学も基礎病理学も修めぬうちに、初めて組織標本をみた時から、我々は自然と、その細胞達の動きを想像し、空想を広げてきた。 いわば、それまでの二十年ないし三十年の人生において、そうした能力を、無意識のうちに培ってきたのである。 子供のような好奇心と興味を持ち続けてきた、と言っても良い。 しかし病理に関心の乏しい学生などと話すと、「○○の所見があれば△△病である」というような、病理学の本質からは程遠い、つまらないパターン付けに安易に走る。 それは経験の乏しさ故ではない。むしろ、つまらぬ受験戦争の波にもまれ、純真な心をどこか深い所に閉じ込めてしまったが故であろう。

別の例でいえば、2 年生や 3 年生の頃に修めた生理学や薬理学の内容を、5 年生になって臨床実習に赴く頃にはほとんど忘れてしまっている者もいる。 これは、必ずしも本人の怠慢や不勉強によるものではなく、要するに、医学の素養と資質があまり豊かではないだけのことである。 もちろん、それで立派な医師になれるのかは疑問だが、そういう人々に対し「なんで覚えていないんだ」「きちんと復習しておけ」と咎めるのは合理的ではない。

すなわち、それまでの人生を通じて形成されてきた「適性」とでもいうべきものが存在する。 私は病理学者としての適性はあると思うが、外科医としてはポンコツである。 そうした適性を欠く者、「みえない」者の存在を、教育する側の人間は、よく認識しておく必要がある。 それを無視して誰に対しても同じような指導をするのでは、まともな教育者とはいえない。


戻る
Copyright (c) Francesco
Valid HTML 4.01 Transitional