これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/05/15 治療の目的

臨床医の中には、診療に際して、治療の目的をよく考えない者がいるのではないか。

非可逆的な合併症なしに完全に治癒できる疾患の場合は、簡単である。 たとえばコレラだとか、レジオネラ肺炎だとかであれば、よほど特殊な事情がある場合を別にすれば、 患者の苦しみを取り除き、元の健康な状態に回復させることが治療の目的になる。

一方、治癒が不可能な疾患や、あるいは救命すら不可能な患者というのも、稀ではない。 その場合、何を治療の目的とするのか、患者と医療従事者の間で、また患者が望むならば家族等も含めて、よく話し合って合意を形成する必要がある。 こんなことは、緩和医療だの終末期医療だの言う以前に、社会常識として当然である。 しかし一部の病院では、そうした治療目的の確認を怠り、漫然とマニュアル的な、あるいは医師の恣意による医療が行われることがあるらしい。 これは、場合によっては極めて残酷な行為に結びついており、医師による患者の虐待といえる。

これは、特に癌や心臓病において著明である。 臨床医療における抗癌剤の「有効性」というのは、多くの場合、治療を受けた患者の生存率で評価される。 つまり極端な例でいえば、「しばらくは元気ピンピンで生活できるが半年後にコロリと死んでしまう治療法」と 「重大な副作用によりほとんど寝たきり状態になるが、一年間は生存可能である治療法」では後者の方が優れている、とされるのである。 言うまでもなく、これは、不適切である。 この二つの例でいえば、どちらを良いと考えるかは患者の死生観、主観の問題であって、医者が決めるべきものではない。

実際、上述の例ほど極端ではないにせよ、大きく異なる治療法から択一せねばならない状況というのは稀ではない。 2 年ほど前に書いた抗不整脈薬の話でも良いのだが、ここでは別の例を挙げよう。 たとえば重症心不全で、β1 刺激薬を用いなければ生存不可能な患者について考える。 生理学が苦手な人のために少し詳しく説明すると、この「β1 刺激薬を用いなければ生存不可能」というのは、次のような意味である。

心臓の拍出力は、心臓の Starling の法則に従って変化する。 つまり、心拍出量が不足しているような状態では、代償性に体液が貯留することで拍出量を増加させる。 その結果、なんとか適切な拍出量が保たれているのが「代償性心不全」と呼ばれる状態である。 しかし、この機構には限界があり、ある点を過ぎると、心臓は拡張すればするほど拍出量は低下してしまう。 この場合、体液は時間と共に貯留し続け、心拍出量はどんどん低下する。これが「非代償性心不全」である。 もともと感染症などの可逆的な病態から発して非代償性心不全に至った場合には、その原因を除去し、 また利尿薬等で体液量を減らせば、代償性心不全の状態で安定させることができるかもしれない。 しかし、いわゆる心筋症など、心臓自体が弱った結果として生じた非代償性心不全に対しては、心臓移植以外の治療法は存在しない。 なお、β1 刺激薬は心臓の収縮力を増加させるから、一時的には心不全を軽快させることができる。 しかし、これは同時に心臓のリモデリングを促し、結局、心臓の機能衰弱を加速させることが知られている。

さて、心臓自体の異常により非代償性心不全に至った患者に対して、どう治療するか。 β 遮断薬を用いてリモデリングを抑制し、体は満足に動かせないながらも比較的長い時間を家族と共に過ごしたい、という患者もいるだろう。 あるいは、書きかけた論文を完成させるために 3 週間だけ動ければ、後はどうなっても構わないから、β 刺激薬を使いたい、という人もいるだろう。 結局、その人が残りの人生をどうしたいのか、という問題を考えねば、治療方針など定まらないのである。 もちろん、それを決定する権利は本人が専有するのであって、家族や医者は、その権利を有さない。

なぜ、このような当然のことを、ここに私が書いているのかは、敢えて述べない。


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