これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/05/13 器について

名古屋大学時代の同級生の某君の話を書こう。本人の許可は得ていないが、まぁ、彼なら気にしないであろう。

彼の第一印象は、非常に悪かった。 私が名大医学科三年次に学士編入学したばかりの 2012 年 4 月、彼は、頭髪を金色に染め、チャラチャラした格好をして大学に来ていた。 頻回に授業をサボタージュし、出席した場合でも居眠りしているか、友人と私語をしているかで、到底、学生と呼ぶには値しない態度であった。 もちろん私は「あの男に近づくと、馬鹿が伝染りそうだ」と考え、積極的には関わらないことにした。 ところが彼の方は社交性あふれる男であり、時折、私に近づいてきて会話を交わすことがあった。 私の方も、敢えて避けるようなことはしなかった。

私が、おや、と思ったのは、4 年生になって、当時発行されたばかりの『ハリソン内科学』日本語第 4 版を通読する勉強会を始めようとした時であった。 私は同級生の何人かに声をかけ、参加者を募った。 まぁ、どうせ参加しないだろう、とは思いつつも、一応、彼にも声をかけた。 すると何を思ったか、彼は「よし、やろう」などと言った。 私は内心、彼の正気を疑いつつも、結局、私や彼を含む 5-6 名でハリソン勉強会を定期開催することになった。 実は『ハリソン内科学』は、あまり通読して面白い教科書でもないので、結局、参加者が漸減し、この勉強会は自然消滅した。 しかし彼は、時折欠席することはあったものの、最後まで参加し続けた。 他に参加者がおらず、私と彼の二人だけでハリソン勉強会を催行したことも一度や二度ではない。

また、2014 年 2 月から 2015 年 7 月にかけて、週刊 The New England Journal of Medicine に連載されている Case Records of the Massachusetts General Hospital を読む勉強会を計 51 回、開催した。 私を除けば、この勉強会に最も多く参加したのも彼である。 さらに、医学上の疑問や考察、勉強した内容などを、最もよく聴いてくれ、語り合ってくれたのも、彼である。 私が名古屋での 4 年間を腐らずに過ごすことができたのは、彼のおかげであると言える。

彼は、いささか低俗ではあるものの野心的な男であり、有名になりたい、とか、金持ちになりたい、とかいったことを、口にしていた。 また、サッカー選手の本田圭佑への憧れも口にした。 いささか女性関係はだらしなかったが、少なくとも部分的には、子供のような純粋な心を持ったまま現在に至ったのであり、悪い男ではない。

もちろん彼は、名古屋大学の関連病院に就職して一生を安泰に過ごそうなどとは考えなかった。 東京の某有名私立病院の初期臨床研修医になったのである。 競争の激しい採用試験があったようだが、あの男であれば、合格したのも順当である。

過日、ひさしぶりに彼に会った。彼は、いささか研修に疲れていたようである。 「眼科に進もうかな」などと言い始めた。 失礼ながら、ここでいう眼科とは「楽に稼げる診療科」の代名詞である。 もちろん眼科医の中には、加齢黄斑変性の治療などに取り組むような志の高い医師も少なくはないであろうが、 楽で稼げる、という理由で選ぶ者が少なくないのも事実であろう。腎臓内科や糖尿病内科も、そしてもちろん病理診断科も同様である。

私は、最初は「何を言うか。馬鹿げたことを口にするな。」とか「楽で稼げるというなら、いっそ美容外科にせよ。中途半端は良くない。」などと彼をたしなめた。 しかし、ついには「まぁ、眼科でも何でも行くが良い。どうせ 3 年もすれば気が変わるに決まっている。 君は、楽して稼ぐ眼科医として人生を終えるような、ちっぽけな男ではあるまい。」と言った。

実際、彼が初期研修の後、3 年間を眼科医として過ごしたとしても 29 歳である。 29 歳といえば、ちょうど私が医学部に入学した年齢にあたる。 それから道を変えたとしても、何ら、遅いということはない。

2017.05.14 語句修正

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