これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。


2017/05/09 浸透圧の理論

浸透圧については一昨年書いた。 Hall JE, Guyton and Hall Textbook of Medical Physiology, 13th Ed., (2016). などの初等的な教科書には 「浸透圧は粒子の数によって決まるのであって、粒子の大きさや質量には依存しない」と記載されているものの、 これは理想溶液近似を用いた理論においての話に過ぎない、ということも述べた。 すなわち、現実に実験を行ってみると、浸透圧は粒子径や質量に依存するのである。 また、奥村伸生他編『臨床検査法提要』改訂第 34 版によれば、臨床検査上は浸透圧は氷点降下法で測定するのが普通であるらしく、 これは理想溶液近似を前提とする手法である、ということも述べた。

現代の臨床医療水準では、浸透圧の微小な相違によって診断や治療が大きく変わることはない。 従って浸透圧の測定精度は、それほど高くなくても実用上の問題は生じず、理想溶液近似に基づく氷点降下法であっても悪くはない。 しかし基礎科学者、臨床検査医学者としては、そうした臨床上の要請の有無に関係なく、より正確で精密な測定法の開発に情熱を燃やすのは当然である。

G. N. Lewis と M. Randall は、熱力学の古典的名著 Thermodynamics (1923). において、活量 activity を用いる形式で氷点降下を定式化した。 しかし Lewis らの理論は、理想溶液からの「ずれ」を「活量」に含めることで便宜的に表現したものに過ぎず、理論としては理想溶液近似の範疇に留まるものであった。 なお、この古典的教科書の第 2 版の和訳本は我が北陸医大 (仮) の図書館にも収められており、私は、これを参照した。

一方、G. D. Fullerton らは、氷点降下は主に溶媒と溶質の間の相互作用に起因すると考え、 理論的根拠は曖昧にしたまま、理想溶液からのずれを経験式で表現したらしい (Biochem. Cell Biol. 70, 1325-1331 (1992).)。 ただし、この文献を我が図書館は蔵していないため、現在、他大学から取寄中である。 この経験式は、当初に想定したよりもはるかに優れた近似を与えることが実験的に示されたため、 Fullerton らは、この式が何か理論的に重要な事実を偶然にもよく表現しているのだと考えた。 そこで彼らが理論として定式化したのが solute/solvent interation model である (J. Biochem. BIophys. Methods 29, 217-235 (1994).)。 これは、一分子の溶質は一定数の溶媒分子の動きを擾乱 (perturb) し、それは溶質の濃度に依存しない、と近似する理論である。 この近似は、分子運動論的な観点から導入されたものであって、熱力学的な背景から生じたものではないことが特徴的である。

現在のところ、Fullerton らのモデルは氷点降下をよく近似する理論であるといえる。 この 1994 年の論文以降、いまのところ、この分野で画期的な理論は提案されていない。

ところで、この G. D. Fullerton というのは、何者なのか。 調べてみると、どうやら米国コロラド大学の教授であって、医師ではなく、1974 年に Doctor of Philosophy (PhD: いわゆる博士号) を取得し、放射線物理学を専門とするようである。 ただし PubMedScienceDirect で検索する限り、著した論文数は多くない。 たぶん、教育や臨床で本領を発揮しているのだろう。

PubMed でみる限り、Fullerton 教授の研究は、その一つ一つに学術的意義があり、単なる業績水増しのための論文は、ほとんど、あるいは全く、ないようである。 そもそも、放射線の専門家が浸透圧について画期的な論文を書いていること自体が素晴らしい。 氏が、幅広い科学的教養と、物理学・数学における深い素養を備えていることの証左である。 また、氏が専門とする放射線の領域においても「強度変調放射線治療における二次中性子の線量について (Med. Phys. 32, 786-793 (2005).)」といった 渋い研究を行っている。 この二次中性子の問題は、たいへん面白く、また放射線医学的にも重要なのであるが、ここで議論する余裕はないので、別の機会にしよう。

私も、Fullerton のように、なりたい。


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