これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
指導医が患者に対して病状や治療内容などを説明するのをきいていると、「可能性はゼロではない」という表現を、しばしば耳にする。 たとえば「免疫抑制剤を使うことで、細菌感染から敗血症を来し、死亡するリスクもゼロではない。」といった具合である。 これは、インフォームドコンセントの観点から、死亡リスクのあることを患者に説明しなければならない一方、 死亡リスクを過大に評価されて検査や治療を嫌がられては困る、という事情から生じた表現であろう。 可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近いから、そんなに心配しなくて大丈夫ですよ。私はちゃんと説明しましたからね。 後で「聞いてない」なんて言わないでくださいよ。というような意味である。
多くの医師は勘違いしているようだが、こういう言い方で患者の「承諾」を得て、同意書にサインをさせたとしても、インフォームドコンセントを得たことには、ならない。 このあたりの問題については、また別の機会に書くことにしよう。 本日の話題は、こうした「逃げの表現」を学生や研修医などが多用しがちな件についてである。
断言できないのである。 診断をする時に「○○かもしれない」「△△は否定的」といった言葉を多用し、表現を曖昧にする。 そのことを指摘すると「100 % 確かとはいえないから」「絶対に違うという証拠はない」などという言葉が返ってくる。 診断が結果として誤りであった場合に「断定したわけではないから、間違いではない」と弁明する余地を残そうとしているのだろう。 間違うことを極端に恐れており、断定する勇気がないのである。
我々、工科や理科の人間は、「かもしれない」という言葉を使わない。 「かもしれない」では、結局、何の情報も生み出しておらず、何も言っていないのと同じだからである。 だから我々は、文章を書く時に「○○である」と断定する。結果的にそれが誤りであったとしても、合理的な思考の末に間違ったのなら、罪ではない。 これは実は医療においても同じことであって、医学的に合理的な判断に基づいて診療した結果、不幸にして患者に不利益が生じたとしても、 誤診したこと自体について医師が法的責任を問われることはない。 換言すれば、断定しなかったおかげで法的責任を免れることができた、などということは、あり得ないのである。 こんなことは、法医学を修めた学生にとっては常識である。
たとえば上で紹介した「否定的」という言葉を、私は、一度として使ったことがない。意味がないからである。 諸君の中に、この言葉の意味を説明できる者が、いるだろうか。 もしかすると「その疾患である確率が下がった、という意味である」というようなことを言う者がいるかもしれない。 では、その「確率」の意味を、説明できるか。 確率論や統計学を修めた者なら容易に理解できるであろうが、診断は確率事象でないのだから、「その疾患である確率」というものは定義できない。 定義できないものの上がる下がるを議論するなど、不可能である。
実際、まともな教科書などで「否定的」というような言葉を、私はみたことがない。 諸君は、一体、どこで、こんな曖昧で無責任な言葉を覚えたのか。 たぶん、学識の乏しい医師が書いた「よくわかる」系の書籍か、予備校講師あたりの受け売りなのであろう。 要するに諸君は「否定的」という言葉を「なんとなく、違いそうな気がする」ぐらいの意味で使っているに過ぎない。 診断に、論理がないのである。
では、どうすれば良いのか、と諸君は問うであろう。 まず基礎を学ぶことである。 諸君は、基礎医学を怠け、「すぐに役立つ」臨床知識ばかりに興味を示すが、それで、まともな診断など、できようはずがない。 「基礎を学び直すのでは時間がかかりすぎ、間に合わない。すぐに使える方法が必要なのだ」と反論するかもしれない。 何を言っているのか。 「すぐに使える方法」があるなら、医者など不要である。 看護師や技師を少し訓練すれば事足りるのであって、年間 1000 万円も払って医師を雇う必要がない。
学生時代、我々が四年ないし六年の間を勉強し続けた一方、諸君は遊び呆け、試験直前に少しの対策を講じるだけで、医学を修めなかった。 試験対策が医学の本質から乖離していることには気づいていたはずなのに、目先の関門を抜けることに専念し、医学と向き合うことを怠ったのである。 その間に生じた差を埋めようと思えば、時間がかかるのは当然ではないか。 それとも、我々の四年間は無駄であったと、侮辱するつもりなのか。