これは http://mitochondrion.jp/ に掲載している「医学日記」を、諸般の便宜のために、 1 記事 1 ファイルとして形成し直したものです。 簡単なプログラムで自動生成しているので、体裁の乱れなどが一部にあるかと思われますが、ご容赦ください。
北陸医大 (仮) 一年次研修医の某君と話していて、感染性心内膜炎における発熱の頻度は、どの程度か、という論題になった。 すなわち、発熱のないことを根拠に「感染性心内膜炎ではなさそうだ」と言えるかどうか、という問題である。
Kasper DL et al. ed., Harrison's Principles of Internal Medicine, 19th Ed., (2015). には、発熱は 80-90 % の頻度でみられる、と記されているのだが、 根拠文献は明示されていない。 また、Lancet 誌に掲載されていたレビュー記事 (Lancet 387, 882-893 (2016).) でも、発熱の頻度を `about 90 %' と記すのみで、根拠を示していない。 こうなると、90 % という数字が、キチンとした根拠なしに独り歩きしているのではないかと疑いたくなる。
もしや、と思い、臨床的に感染性心内膜炎の診断基準として用いられている「修正 Duke の基準」の原著 (Clin. Infect. Dis. 30, 633-638 (2000).) や 「Duke の基準」の原著 (Am. J. Med. 96, 200-208 (1994).) を調べてみた。 これらの論文では「臨床的に明らかな感染性心内膜炎の症例」において、発熱の頻度が 90 % 近くでであった旨が述べられている。 発熱がなければ「臨床的に明らかな感染性心内膜炎」とは診断されにくいのだから、これは「感染性心内膜炎では発熱を来しやすい」と考える根拠には、ならない。 統計用語でいうところの選択バイアスに過ぎないのである。 一方、Duke の基準が発表された後の臨床調査においては、この基準がゴールドスタンダードとして用いられる例が多い。 この場合、「発熱を伴わない感染性心内膜炎」は母集団から外される傾向が生じるので、こうした報告も、「感染性心内膜炎では発熱を来しやすい」とする根拠にはならない。
病理学的な観点からいえば、感染性心内膜炎があっても、炎症を惹起する LPS などが血中にあまり放出されなければ、発熱しなくても何の不思議もない。 もし病理診断学的に精密な検索を行えば、発熱を伴わない感染性心内膜炎など、それほど珍しくないのではないか。
実は、私と同じようなことを考えた病理学者は、過去に何人もいる。 近年でいえば、スペインの M. L. F. Guerrero らは、病理解剖の際に詳細な検索を行うことで、臨床的に見落とされる感染性心内膜炎が稀ではないことを指摘した (Medicine 91, 152-164 (2012).)。 この報告によれば、感染性心内膜炎のうち 38 % が臨床的に見落とされていたという。 とりわけ、発熱などの典型的所見を欠く例で誤診が起こりやすい、と Guerrero らは指摘している。 もちろん、病理解剖を基準とすることで少なからぬバイアスが含まれていることは間違いない。 しかし、典型的な臨床所見に頼る診断の危険性を指摘するには充分であろう。
以上のことからわかるように、典型的所見を欠くことや、診断基準を満足しないことを理由として感染性心内膜炎の可能性を否定することは、危険である。